2014年6月10日 (火)

ブログの変更と移転のお知らせ

 

 いつも「アジアン・カフェをよろしく!!」(@nifty)をご訪問いただきありがとうございます。このブログは2013年6月5日にスタートしましたが、ブログのスタイルを大幅に変更します。

 

2014年6月11日より、新たに4つのブログ(FC2ブログ)を立ち上げました。

 サイト名は「アジアンカフェ ふれんどしっぷ ブログ・タイム」です。

 URLは、http://seigo1000.wix.com/asiancafe

 

  まずは、ここに↑アクセスして下さい。

 〔A〕アジアンカフェをよろしく! 海外の旅日記・旅行記・エッセイ  

     http://asiancafe3232.blog.fc2.com/

 〔B〕日本細見紀行 日本の旅日記・旅行記・エッセイ

      http://asiancafe9999.blog.fc2.com/

 

 〔C〕よこみち・うらみち まち探検隊  首都圏の街歩き 

 http://asiancafe573.blog.fc2.com/

 〔D〕ちかみち・よりみち まち探検隊  関西圏の都市街歩き 

     http://asiancafe333.blog.fc2.com/

 

変更にあたって

 

(1)本ブログ=旧ブログ「アジアン・カフェをよろしく!!」(@nifty)は今後、旅日記や旅

   のエッセイなどの内容に関わる更新を行いません。ただ当分の間(2015年3月末ぐら

   いまで)、旧ブログとして、URLはネット上に残したままにしておきます。その間、今 

   回のような案内文を掲載することはあります。

(2)旧ブログ「アジアン・カフェをよろしく!!」の記事の引越しは以下のようになっていま

   す。

  〔A〕旧ブログから(新)「アジアンカフェをよろしく!」への引越しは完了しています。

       引越しに際し、誤字脱字を中心に、一部の文章を加筆訂正していますが、文意の変わ

     るところはありません。写真のサイズは約2倍、写真点数は30%程度増やしてい

     ます。

  〔B〕旧ブログから「日本細見紀行」への引越しは完了しています。引越しに際し、写真

     のサイズは約2倍、写真点数は20%程度増やしています。

  〔C〕旧ブログから「よこみち・うらみち まち探検隊」への引越しはありません。

  〔D〕旧ブログから「ちかみち・よりみち まち探検隊」への引越しはありません。

 

(3)ブログの管理人名は、「アジアン・カフェ」から「アジアンカフェ」に変更します。  

(4)4つのブログはそれぞれリンクしているので、各ブログのリンク欄から他の3つ(のど

    か)にアクセスすることができます。 

  

今後とも、新ブログをよろしくお願い致します。

 

2014年2月20日 (木)

赤沢宿と雨畑地区。蟲師「硯に棲む白」。

2006年1月30日 赤沢(山梨県早川町)

 身延往還が通る赤沢はかなり前から知っていた。いつかは行こうと思っていたが、直接のきっかけとなったのは、土曜日の深夜にやっていたTVアニメ「蟲師(むしし)」である。2005年10月から2006年3月まで放送された。

 「蟲師」の蟲は昆虫の虫ではない。物の怪あるいは妖怪あるいは精霊といっていい。世の中に起こる不可思議な出来事には(つまり学問的、理論的な解釈ができないことには)蟲が介在しているという設定のアニメである。その蟲の存在を確かめ、不可思議な出来事を解決に導くのがタイトルになっている蟲師である。

 漫画のほうは1999年から2008年に渡って月間アフタヌーンを中心に発表されたらしいが、私は読んでいない。2005年からの放映されたTVアニメは1編25分程度で完結し、全27話(26話+特別編)ある。そのうち私が観たのは半分ほどだろう。これは世界各国で高い評価を受けており、今では、世界各国の視聴者からの各話ごとの感想までインターネットで読むことができる。

 「蟲師」は2007年に映画化(出演/オダギリジョー、蒼井優)された。いい映画でないことを表す表現として、わざわざお金を払ってまで観に行くほどの映画ではないという言い方があるが、この映画については、入場料を返してもらいたい。ひどい映画だった。

 TVアニメの第10話のタイトルは「硯(すずり)に棲む白(しろ)」である。硯は習字に使う硯のことで、白は蟲の名前である。これを観ている途中、舞台は赤沢ではないかと思った。確信したわけではない。なんとなく思っただけである。唯一の根拠は「硯に棲む白」のなかに出てきた山道だ。一部に石畳があった。赤沢は身延往還が通る集落で、山道であるにもかかわらず石畳がある。日本の山間の村に石畳があるのは珍しい。

 「蟲師」の舞台はほとんどが村であるが、日本のどこかの村や集落を特定して描いていない。登場するのは山村や漁村だが、ごく一般的な村の風景として描かれている。仮に作者がどこかの村をモデルにしていたとしても、それは抽象化され、隠されているといっていいだろう。ちなみに私は旅好きで、映画であろうとドラマであろうとアニメであろうと、画面に映るあらゆるシーンで、ここはどこなのだろうと思いながら観ている。例えば、ごく普通のドラマの、偶然に映る電柱の住所表示などを読み取ろうとしまう。もちろん、それがどこの場所なのかはほとんどわからないのだけれど。

 当時のインターネット検索で「蟲師」のヒットはほとんどなく、「硯に棲む白」は1、2件だったように記憶している。検索上で、赤沢と「蟲師」あるいは「硯に棲む白」をつなげることはまったくできなかった。 

 赤沢宿は山梨県早川町にある。早川町は身延山の裏側で、地図上の直線距離では身延駅(身延線)が最も近いが、かなり迂回していくことになる。2014年2月現在、身延駅からのバスは下部温泉駅(桜がきれいな鄙びた温泉)経由で、1日4本である。当時のバスの本数はわからない。身延山久遠寺から奥の院まで行き身延往還を歩いて赤沢に入るというコースもあるにはある。ただ、久遠寺は以前行ったことがあり、その日はどこかに泊まり、別のところも周ってみたいと思ったので、車で出かけることにした。

 横浜から車で城山町、津久井町、道志村を抜ける。道志川に沿っているので景色はいいが、カーブが多く運転が疲れる。富士吉田から富士五湖を抜け、下部町から早川町に入る。途中に「硯」の文字が入った博物館があった。ここが「硯に棲む白」の舞台である可能性はかなり高くなった。赤沢入口からは完全な山道となる。身延駅からバスで来た場合は、この赤沢入口で降り、その先は徒歩で山を登ることになる。

Dscf0010  山道は舗装されているが、一車線あるかないかの狭い道幅でくねくねと曲がる。道の両側の草木で車が擦れる。対向車があった場合どうにもできないが、とにかく登り切るしかない。かなり登ったところに集落があった。赤沢である。

 集落のなかに車を止める場所がない。車を反転させることもできにくい。ゆっくりと上のほうまで登る。畑の脇の、道が少し広がったところのちょっとしたスペースに駐車させた。誰かに注意されるかもしれない。

 雰囲気はまるでチベットだ。チベットに行ったことはないが、そう思った。もちろん小さな山間の集落である。山間の急斜面に、家があり畑がある。秩父の奥にある栃本(とちもと)とDscf0003 いう集落がある。栃本は、急な斜面にそのまま野菜などを植えているが、赤沢の畑はわずかな平地を畑としている。もちろん畑は少しあるだけである。

 赤沢は身延山から七面山への参拝の途上にある。江戸時代は庶民の物見遊山が普及した時代でその頃から赤沢はあったらしいが、集落が賑わったのは明治時代らしい。総戸数40戸の集落に9軒の宿があったといわれている。1990年代には6軒が残っていたらしい。

 いくつかある宿は講中宿と言われている。講中宿とは、講という、信仰を同じくする集団が宿泊した宿という意味だ。江戸屋、喜久屋、大黒屋などの講中宿が残っており、江戸屋の軒下にずらっと講中札が貼られている。私が訪れたときは1軒の宿も開いてはいなかったが、夏だけは営業されていたはずだ。石畳は国の補助で整備されたらしい。

Dscf0017  赤沢宿は重要伝統的建造物群保存地域に指定されている。これは城下町、宿場町、門前町などを保存するために設けられたもので、まず市町村が、歴史的風致の残っている環境を選定するが、その最終決定は文部科学大臣である。その際、1軒の建造物では適応されない。面となって残っていることが必要で、一定のエリア内での社寺、民家、蔵などはもちろん井戸や門なども含まれる。1965年の文化財保護法改正のあと、徐々に対象地域が指定され始め、現在106の地域に広がっているが、法整備が10年早ければ、より多くの地域が残っただろう。私が訪問したのは106の半分弱だが、毎年、文部科学省による世界遺産への推薦のなかに、重要伝統的建造物群保存地域がなかなか入ってこないのを疑問に思っている。

 誰にも出会うことなく、赤沢をあとにする。早川町の役場の辺りまで降りて、硯の博物館に入る。調べたところ、2014年の正式名称は硯匠庵だった。○○博物館といったように、名称には「博物館」の文字が入っていたように思うが、記憶違いのようだ。小学校のとき習字を習っていたぐらいで、特に硯に興味があるわけではない。私はなんとなく硯を見ただけで、館を出てきた。

Dscf0032  車が動き出したとき、起動したナビに雨畑という地名が表れた。さっきまで私が見ていた硯の名称は雨畑硯だった。雨畑というのは地名だった。氷見線に雨晴(富山県)という駅名があったのを思い出した。そういえば、「硯に棲む白」のなかで、畑に雨が降っていたような気がする(そうではないかもしれない)。そのシーンがあれば、間違いなくアニメの舞台はここだろう。

 雨畑地区の一部は1956年以前、硯石という村だったそうである。雨畑地区を周ってみたくなった。適当に車を走らせるが、道が四方八方に分かれているわけではない。県道810号を奥に進むしかない。細い雨畑川が道路に沿っている。雨畑ダムが現れた。電力会社や国ではなく、本軽金属という金属会社が造ったダムらしい。

Dscf0036  ダムの近くのある場所に突然、硯の店が現れた。2軒が隣り合っている。辺りはわずかに集落を形成していた。早川町の人口は1,100人ほどであるが、町の中心からかなり奥に入った場所である。こんなところに工房があるとは。硯は店の前に少し置かれていた。外から店のなかを見通せる。店はどうやら工房を兼ねているようだ。店、兼工房のなかを覗き込むが、人がいる気配はない。工房のなかはかなり乱雑に硯が置かれていて、陳列しているという感じではなかった。少し待ったが、誰も出てこない。

 どこかに迷いこんだようだった。店のそばの草むらの斜面に案山子のようなオブジェが何体も無造作に置かれていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その記事を書いている2014年2月19日に、テレビ画面に雨畑地区の様子が映った。2月14日から15日にかけて降り続いた雪によって、144人79世帯が孤立したらしい。雨畑ダム周辺の航空写真も映し出された。道路はまもなく開通するだろうと報道されていた。

 2014年4月から「蟲師」は「蟲師 続章」として、再びテレビで放映される。赤沢宿に行くきっかけは「蟲師」を観たからだが、そのことを書こうと思ったのは、数日前に「続章」がテレビ放映されることを知ったからだ。

 新しく公開されている「蟲師 続章」のHPには以下のような概要が載っていた。

 およそ遠しとされしものー下等で奇怪、

 見慣れた動植物とはまるで違うとおぼしきモノ達。

 それら異型の一群を、ヒトは古くから畏れを含み、

 いつしか総じてと呼んだ。

 時に蟲はヒトに妖しき現象をもたらし、

 そしてヒトは初めてその幽玄なる存在を知る。

 ヒトと蟲との世を繋ぐ者ーそれが蟲師

 すべての生命は他を脅かすために在るのではない

 みな、ただそれぞれが、在るように在るだけー。

 記事を書くに当たって、再度インターネットで検索してみた。以前とは比較にならないほどの情報がインターネット上にあった。You Tubeで何編かのアニメを観ることもできるようになっていた。「硯に棲む白」を観てみた。畑に雨が降っていたかもしれないというのは間違っていた。降っていたのは雹だった。石畳の形状も違うといったほうがいいかもしれないが、似ている場所もなくはない。なにより雰囲気はあきらかに赤沢である。

2014年2月16日 (日)

ダイハツCM 《ベタ踏み坂》 と ♪美しい人よ♪

1998年5月 境港の境水道大橋と江島大橋 / 2003年7月 明科駅まで歩く

 ダイハツの車には乗ったことがないが、CMはなかなかいいと思う。

 まず「タントカスタム」の《ベタ踏み坂》。豊川悦司と綾野剛が車で登る坂である。CGは使われていないが、なかなかの迫力である。あの急勾配は境港に架かる橋かもしれないと思い、調べてみた。私がその橋を渡ったのは1998年5月2日だが、CMの《ベタ踏み橋》は新しい橋のようで、私が渡った橋とは異なる可能性は高いとは思っていた。

Img_0022  神奈川から車の運転をしてきて3日目のことだ。早朝、米子のホテルを出て、境港に向かった。鬼太郎の町を歩き、そのあと松江に向かって運転していたとき、突然、急勾配の橋が現れた。「えっ、この急勾配を登るのか、大丈夫か」と思ったことを覚えている。この橋は、私が車で渡った橋のなかで、おそらく勾配が最も急な橋である。そのとき、アクセル・ベタ踏みで渡ったと記憶しているが、今回のダイハツCMの《ベタ踏み坂》でなかった。そのとき私の車はトヨタだった。

 その橋の名称は、境水道大橋。松江市美保関町森山と境港市昭和町を結ぶ橋だ。

 

 驚いたことに、CMの《ベタ踏み坂》は、私が車で渡った境水道大橋のすぐ近くにあった。《ベタ踏み坂》の橋は江島大橋という名称である。こちらは松江市八束町江島と境港市渡町を結ぶ橋で、橋の名称になっている江島は、ラムサール条約に登録されている中海に浮かぶ島の名である。

 境港の中心街から松江の中心街に向かう場合、境水道大橋を通ると、中海の北側を西に走ることになるので遠回りになる。江島大橋を通過する場合は、まっすぐ西に向かうのでこちらのほうが近い。境港は鳥取県、松江は島根県である(ついでに書いておくと、「萩・津和野」の萩は山口県で津和野は島根県、「伊豆・箱根」の伊豆は静岡県で箱根は神奈川県である)。

 島根県には、他に宍道湖大橋や浜田マリン大橋があるが、境水道大橋と江島大橋はともに島根県、鳥取県を代表する橋である。2つの橋が同じ自治体を結ぶ橋として架けられたのは、たまたまそうなっただけと解釈できる。境水道大橋は最初、鳥取県境港市と島根県美保関町を結ぶ橋として、江島大橋は鳥取県境港市と島根県八束町を結ぶ橋として完成した。しかし、2005年美保関町と八束町は他の5町村とともに松江市と合併する。当然、松江市の名称が残り、松江市に吸収されたようになる。それが、境港市と松江市を結ぶ橋が2本登場した理由である。

 橋に歴史があった。人に歌があるように。

 1972年、境水道大橋が建設される前の境水道には渡船が運航されていた。境港市相生町の相生町岸壁と松江市美保関町の宇井岸壁の間を行き来していた。距離は500~600mぐらいだろう。最初は車載の船が動いていたらしいが、橋の完成後は客の輸送だけになってしまった。その旅客の輸送も2007年3月で廃止となり、今、このルートを公共交通機関で行こうとするとコミュニティバスに乗るしかなくなった。橋は境港市内の東側にかかっているので、かなり大回りをすることになる。CMをきっかけに調べてみるまで、この渡船については知らなかった。日本全国の至るところにこういう場所はあったはずだ。昨日あったものが、明日もあるとは限らない。旅は早い者勝ちだということをあらためて認識させられた。

 CMの江島大橋が完成したのは2004年(松江市との合併の前年)である。もともとこのルートには中浦水門があった。この水門の上には道路橋が作られていた。水門の上に作られたのだから、もちろん「ベタ踏み坂」のような急こう配の坂ではなく、平坦な橋である。中浦水門には、10門の二段式ローラーゲート(水を流す扉が2段に分かれている)と中央部の3つの閘門(こうもん・ロック)がある。閘門は水位の異なる運河や川で船を上下させる装置である。日本各地にあるので、とくに珍しいわけではない。

 

 中浦水門は、農地の造成と農業用水確保を目的として中海を淡水化するという計画のもとに作られた。しかし淡水化は延期され、淡水化とセットになっていた大規模干拓事業も中止になり、中浦水門は何の役にも立たなくなった。近くに《ベタ踏み坂》の江島大橋が架けられ、中浦水門は撤去されてしまった。膨大な公共事業費は何の役にも立たなかった。投下資金の費用対効果の計算の甘さというレベルではない。投下された金額をここでは書かないが、完ぺきな失敗といっていいだろう。ここでも住民を二分する、賛成か反対かの大議論が起こっていたのかもしれない。それは私の知らないことではあるが、開発の際の、日本のどこにでもあることだ。

 もう1つのダイハツCMは、「くらしのなかの真ん中で 夫と海」である。

 福祉車両のCMだ。出演者はマイク眞木、りりィ、中村ゆり。風景はどこかの海とどこかの家。場所はわからないが、それはどうでもいい。しかし音楽は無視できない。

 CMで流れている曲は、大貫妙子の「美しい人よ」である。流れているのは演奏だけで、歌詞はついていないから、原曲の「LA VIOLETERA」が流れているというべきだろう。これは1923年にスペインで作られた曲である。作詞はEDUARDO MONTESINOS LOPEZ、作曲はJOSE PADILLA SANCHES。

 この歌は、チャプリンの「街の灯り」で使われていたらしいのだが、私がそのことを知ったのはJR東日本のCMである。そのCMでは大貫妙子の歌が流れていた。CMで何度も聴いた。この記事を書くためにインターネットで調べ直してみたが、そのCM映像は出てこなかった。いつからいつまでそのCMが流れていたのかも判明しない。

 ~♪♪ 美しい人よ ♪♪ 日本語作詞 大貫妙子

 雲が流れる高い空

 どこか遠くを歩きたい

 なくしてた心を求め

 幸せを歌いたい

 風薫る町であなたの瞳に

 めぐり会った時

 手をさしのべれば

 胸は躍る

 花咲く小道の美しい人よ

 この腕の中に

 そっと抱き寄せて

 恋におちる

 ♪(続く)♪

 女性的な歌だ。それ以上に、最高の、旅の歌だろう。

 その頃、安曇野が好きで何度か出かけていた。1994年10月30日に車山に登った(頂上近くまで車で行ける)ときに、豊科駅と穂高駅(ともに大糸線)に寄った。どちらの駅だったのかを忘れてしまったが、どちらかの駅の待合室に置かれていたテレビで、JR東日本のそのCMが繰り返し流されていた。そのときの写真のなかの、豊科駅に立てかけられた旗に「秋色信州 東京からイチバン近いナチュラルリゾート 秋の信州キャンペーン 1994.10.1.SAT―11.30.WED」とあることを考えると、豊科駅の可能性が高い。

 CMには“駅の近くの蕎麦屋”が映し出されていた。今となっては、それも確かな記憶ではない。「たぶん、おそらく“駅の近くの蕎麦屋”だったような」という程度のあいまいさである。豊科駅で、ロケ地がどこなのかを尋ねていればよかったのだが、できなかった。その頃、CMのロケ地を巡るといった種類の旅はなかった。もちろん全然なかったのかと言われると、そういうわけではないだろう。おそらくそういうことをしていた人はいただろう。しかし相当な変わり者として見られたことは確かである。

Dscf0039  何かのきっかけでそれがどうやら明科駅(篠ノ井線)近くの蕎麦屋であることを知ったのはずっとあとのことだ。その場所の近くまで行くのに、2003年の7月末まで待たなければならない。   

 そのときは、3日間信州を旅した。中綱湖のある簗場から大糸線に乗り穂高駅で降りる。穂高には以前、研成義塾を創った井口喜源治記念館があったが、ガイドブックには載らなくなってしまった。代わって登場したのが臼井吉見文学館だ。私は小説「安曇野」のあまりの長さに、三巻目ぐらいで放り投げてしまった。碌山美術館と大王わさび農場というお決まりの場所に寄る。わさび農場内の清流には、黒澤明の「夢」に出てきた水車がある。水路はいくつも引かれていてわさび栽培のうつくしい風景を見せてくれる。

Dscf0045  わさび農場から明科駅まで歩いてみることにする。穂高駅から梓橋駅までの大糸線は篠ノ井線とほぼ並行に走っている。その距離は直線で3~4kmだ。わさび農場の奥のほうから犀川を渡る橋はない。農場の出入口にもどるしかない。せっかくだから穂高川のほとりの早春賦にも寄ってみた。途中、道祖神を2つほど見かけたが、それはこの地方の旅の楽しみである。この辺りの道路の至るところに、子供の足跡が白いペンキで塗られていた。もちろん両足揃えての足跡で、子供が家や道路から飛び出すのを防ぐためなのだろう。実際には、子供に一旦停止を教え込まないと守られないのだろうが、車のドライバーに警告する意味ではいいかもしれない。

 県道85号保高明科線から県道51号大町明科線に入り、国道19号に入る。穂高川を離れると風景はつまらなくなった。結局2時間近く歩き、ようやく明科駅に着く。もちろん“駅の近くの蕎麦屋”など見つかるはずはない。駅の近くではないのかもしれないが、明科駅構内の駅蕎麦ではない。

 明科駅で篠ノ井線に乗る。長野の手前の姥捨駅で降り、夕刻の美しい棚田を歩く。

2014年2月13日 (木)

“これは私たちそのものです”。国境の街のスタジアムで。

1998年8月  ジョホールバル

 サッカー中継のなかで、ある1人のアナウンサーによって発せられた3つの言葉を紹介しよう。

 “声が届いています。はるか東のほうから、何百万、何千万もの思いが、大きな塊になって聞こえてくるようです”(W杯フランス大会1次リーグ日本対アルゼンチン戦、1998年6月14日)

 W杯初参加の日本の最初の試合は0対1の敗戦となった。よく戦ったと思う。その後、ビデオで何度かこの試合を観たが、ビデオ機器を破棄したときにビデオの録画も捨ててしまった。この試合を観ることはもうないかもしれない。

 “選手が手にしていた花。小さな花ですが、立派に咲かせた花でした”(ワールドユース・ナイジェリア大会決勝日本対スペイン戦 1994年4月14日)

 深夜に放映されたこの大会で、小野伸二、高原直泰、稲本潤一、小笠原満男、遠藤保一を擁した日本代表アンダー23チームはポルトガル、メキシコ、ウルグアイを撃破していく。FIFAの大会で世界の強豪を相手の3連勝をフル代表で見ることができるのは、何年後、何十年後になるのだろう。本山雅志のドリブルにナイジェリアの観客は大いに湧いた。決勝戦はシャビ、カシージャス率いるスペインに0対4で完敗したが、その後、中田英寿を加えたこのチームは、シドニー五輪でベスト8、日韓ワールドカップでベスト16という結果を残す。

 1997年に行われたW杯フランス大会のアジア最終予選は、日本のサッカーが世界に出ていくための、生みの苦しみともいえる激闘の連続となった。

 初戦は国立競技場にウズベスタンを迎えた。三浦知良の4発のゴールを含む6得点を取った日本だったが、ボランチ横を相手に自由に使われ、6対3という派手な打ち合いを演じてしまう。評価が難しい試合となった。私はこの試合のチケットを取ろうと2台の電話機の前で400回ほどリダイヤルを押し続けたが、徒労に終わった。そのあとアウェイでUAEと引き分けたが、第3戦の国立競技場で韓国を相手に1対2で逆転負けとなった。秋田豊投入の際の監督の采配が大問題となった。この時点で勝ち点は4、グループBの3位となり、早くも1位通過の可能性がかなり低くなる。

 日本代表の迷走が始まった。アウェイの中央アジアでの2試合は引き分けに終わる。アルマティでのカザフスタン戦終了後には監督が加茂周から岡田武史に代わった。そしてホームにもどってのUAE戦も引き分けてしまう。それは日本サッカー史上唯一の、サポーターの暴動といってもいい事態を引き起こすことになった。しかし韓国がワールドカップ出場を決めていたこともあり、チャムシル(ソウル)での韓国戦に2対0で快勝する。久しぶりに納得のできる試合を観た。長く暗いトンネルの先に出口だと思える小さな光が見えた。最終戦のカザフスタン戦では5対1のゴールラッシュで圧勝した。私たちの日本代表がもどってきた。そんな思いをどれだけ多くの人が持ったことだろう。アルマティからの5戦は薄氷の上を行く戦いだったのだ。

 アジア第3代表決定戦はホーム・アンド・アウェイではなく第三国で行われた。開催地はあらかじめ決定されていたことではなかった。日にちを覚えていないが、開催日と開催地が発表されたのは23:00頃である。最初にテレビ画面の上のほうにテロップを流したのはテレビ東京だったように思う。それ以上の情報を取ろうとチェンネルをあちこち変えてみたが、そのあと2、3のテレビ局が同じ内容の情報を流しただけだった。翌日にはJTBのチケットが全部売り切れたという報道があった。当時のBグループの展開では、第3代表決定戦の開催地にはバーレーンが有力視されていたということをあとで知った。しかし気候や移動距離で著しく不利になることを理由に日本サッカー協会が猛烈に抗議して開催地を勝ち取ったのだった。

 ジャパンブルーのサポーターはコーズウェイを越える。マラッカ海峡に日が落ちた。国境の北のスタジアムは太陽の東のスタジアムになる。客席は青に染まる

 決戦の舞台の幕が開ける。先制点は中田英寿のパスを受けた中山雅史である。しかし後半開始から、ブンデスリーガでプレーしているアジジとダエイにそれぞれゴールを決められ逆転を許す。

 後半18分、岡田武史は大ばくちを打つ。誰ひとり予想しなかった選手交代が行われた。三浦知良と中山雅史を同時に下げ、城彰二と呂比須ワグナーの2人がピッチに投入された。この交代がなければ、試合がどうなったのかはわからない。もっとも大きな変化は中田英寿に現れた。それは世代交代が行われた瞬間だった。後日フランス行きのメンバーから三浦知良が外されたことは、この交代の確認印に過ぎない。交代劇のあと、中田は生き生きと縦横無尽にピッチを動く。同時に2点を取ったあとのイランは明らかにスタミナが切れていった。ボールは中田に集まり、日本は徐々に試合を支配し始める。元々ポゼッション志向の強い日本代表であったが、私たちはまだポゼッションという言葉を知らない。私たちはようやく、前々監督によって持ち込まれたアイコンタクトやスモールフィールドという言葉を過去のものとしつつあり、プレスという言葉を消化しかけていた頃のことだ。左センターサークルの前辺りから(あいまいな記憶である)の中田のフィードによる城のヘディングで2対2の同点となり、そのまま延長に入る。

 地上波の放送はフジテレビだった。アナウンサーは長坂哲夫、解説は清水秀彦である。私も、多くの人も、つまり私たちはこの放送を聴いたのだ。そのとき、NHK-BS1ではアナウンサー山本浩、解説松木安太郎で実況をやっていた。

 延長が始まるとき、言葉はやや唐突に発せられたのだと思う。アナウンサーの言葉を細大漏らさず追っていた人にとっては、それは意外な言葉だっただろう。しかしBSー1で観ていたわずかな人たちでさえ、そのとき、山本浩によって語られた言葉はスルーされたのではないだろうか。あの試合、アナウンサーの言葉なんてどうでもいいことだった。

 “このピッチの上、円陣を組んで、今散った日本代表は、私たちにとって「彼ら」ではありません。これは私たちそのものです”

 “日本代表は、私たちにとって「彼ら」ではありません”。サッカーの実況中継ではとうてい出てこない言葉である。“これは私たちそのものです”。ナイーブなフレーズだ。まるでジョン・アーヴィングか村上春樹の小説にでも出てきそうな。いや村上春樹なら書かないだろう。

 冒頭で紹介した2つの言葉はあらかじめ用意された言葉だろう。しかし、この言葉があらかじめ用意されていたかどうかはわからない。なぜなら、それは延長戦に入る直前に発せられた言葉だったからだ。この試合に限らず、引き分けで進行していった場合、それがどんな展開であっても、いつ点が入り試合が決まってしまうかもしれない。それがサッカーだ。そうなってしまった場合、もちろん延長戦はない。もし後半戦で試合が終わってしまったら、あらかじめ用意されていたのかもしれない山本の言葉は誰にも知られないまま日本に持ち帰られることになる。

 (フジテレビの実況で観ていた私は、おそらく多くの人は、)つまり私たちはNHK-BS1でこの試合を観てはいない。フジテレビのこの試合の視聴率は47.9%である。これはドーハの悲劇の48.1%に次ぐ、W杯アジア予選の中継の史上2位の記録である。

 多くの人が、つまり私たちが耳にしていない言葉が伝説となっている。あなたの近くにいるサッカー通に尋ねてみてほしい。もし、この言葉を聞いたという人がいたら、そのときはNHK-BS1を観ていたのかどうかを確認してほしい。おそらくそうではないはずなのだ。

 あのとき、確かに“彼ら”は“私たち”だった。だから“彼ら”だった“私たち”のなかの私はフジテレビの中継でその言葉を聞いた気がしている。それだけではない。その後の試合で、ピッチに散っていく日本代表を見る度に、いつもこの言葉を思い浮かべる。だから、もしフジテレビで観戦したあなたの知っているサポーターが、その言葉を確かに聞いたと言ったとしても、それは間違いではないのだ。

 試合のあと、私は眠れなかった。早朝の5:00を待って、近くの駅に行く。売り切れになっては困るのだ。売店はまだ半開きの状態で、床に置かれている新聞の束はまだ解かれてはいなかった。先に駅の近くのコンビニで新聞を3紙買う。また駅にもどり、売店が開くのを待って、追加で2紙を買う。ほとんどの新聞は1点目のシュートのあとの中山の咆哮する写真を一面に持ってきていた。試合の時間と紙面の刷り上がる時間の関係で、後半について触れた記事はなかった。

 W杯を巡る日本代表の長い長い冒険の第1章が終わった朝だった。

Img_0039_3  夏の朝、ファランポーン駅でバターワース行きのチケットを買う。15:00台にバンコクを出るマレー鉄道の寝台列車に乗る。翌日にはペナン島に着いた。その後、ランカウイ島、アロースター、クアラルンプル、スレンバン、マラッカを周り、ジョホールバルに入った。マラッカからのバスが着いたのはラーキン・バスターミナルだった。タクシーでラーキン・スタジアムに向かう。正式名は、タン・スリ・ダト・ハジ・ハッサン・ユーヌス・スタジアム。ラーキンは地名であるので、ラーキン・スタジアムと呼ぶのだろう。この時点で「地球の歩き方」最新版に、まだラーキン・スタジアムは掲載されていない。掲載は翌年から始まるが、今ではそれも消えてしまっている。

 スタジアムは開いていた。事務所を探すつもりだったが、入ったところに観客席に出る階段があった。登ってみると、貴賓席のようなところに出た。ラーキン・スタジアムはサッカー専用スタジアムではない。陸上競技場を兼ねているので、ピッチの周囲には陸上のトラックがある。そこで30人ほどがトレーニングをしていた。階段を降りてフィールドのほうに行く。コーチっぽい人に、フィールドに入りたい旨を伝えると、フェンスの下にある事務所で許可を取ってくれと言われた。フィールドのなかに入り、事務所の扉まで歩く。

 私は想定問答を2つ用意していた。

 Q1 なぜスタジアムに入りたいのか 

  A1 私はスポーツジャーナリストだ。日本代表を取材している。

 Q2 マレーシアのサッカーをどう思うか

  A2 アグレッシブ

Img_0153_2  A1はもちろん嘘であるが、試合でもないのにスタジアムに入れる理由をそれ以外に思いつかなかった。A2については、その時点でマレーシアのサッカーを見たことは1試合ぐらいしかなかったし、その内容を覚えていない。しかしスタジアムに入れてもらいたいのだから、相手のナショナルチームを守備的であるとは言いにくい。本当にアグレッシブかもしれない。マレーシアのプレーヤーを知っているかと訊かれようものなら、専門は野球であると言ってごまかそうと考えていた。

 フェンス下の部屋は事務所ではなく、室内トレーニングルームであり、何人かがマシンを使ってトレーニングをしていた。そのなかの一番えらそうな人から、フィールドに入っていいという許可を得た。一応尋ねられたので、前述のA1は使ったが、「ただ入ってみたいだけ」と答えても、入れてくれたと思う。Q2については訊かれることはなかった。東南アジアのゆるさはこういうことを可能にする。前年の大みそかの日、ソウルのチャムシルスタジアムに入ろうとしたが、事務所が開いていず(12月31日だから当たり前だろう)、そばにいた人に訊いてみても、入れる感じではなかった。外からゴールマウス辺りのフィールドが少し見えたので、そこが名波浩と呂比須ワグナーのシュートの位置辺りだろうと勝手に納得して帰ってきたが、逆サイドであることも考えられる。

Img_0151  センターサークルにリュックを置く。1点目の中田のパスの位置と中山のシュートの位置に立つ。2点目の中田のフィードの位置と城のヘディングの位置に立つ。3点目の中田のシュートと岡野雅行のシュートの位置に立つ。両方のゴールマウスの前に立ち、川口能活の視点でピッチを眺める。4つのコーナーからゴールを見る。ラーキン・スタジアムの空は快晴だった。

 勝利の瞬間、岡田武史を中心に全員がピッチになだれ込んだ。それは何度もテレビで放映された。その大騒ぎのなか、中田英寿はにこにこしながら、スラローム調で浮遊しているように歩いていた、というのは私の記憶である。終了後、撮影された歓喜に沸く日本代表の写真に中田の姿はない。中田はみんなの後ろに隠れていたのだ、というのも私の記憶であるが、今となってはもうわからない。その写真がどの位置で撮られたのかもわからなかった。

 ピッチには30分ほどいた。スタジアムは狭かった。日本のサッカースタジアムは日本サッカー協会による「スタジアム標準」なる厳密な規格があり、クラスSからクラス4までの5ランクに分かれている。そのうちクラスSからクラス3までのフィールドのサイズは、長さ115~125m、幅78~85mと決められている。ラーキン・スタジアムのフィールドは狭かった。本当にこの狭いフィールドで国際試合が行われたのか不思議だった。FIFAの規定では国際試合の開催スタジアムのフィールドは105×68mである。しかしもちろん測りようなどない。

Img_0157  ピッチの芝は短く、ところどころ傷み、荒れていた。ゴールマウス前の芝ははがれていた。観客席も歩いてみたが、国際試合を行うにはあまりに古かった。しかし1997年11月16日、運命の試合は確かにそこで行われ、彼らではない、私たちは国境のスタジアムの蒼い月を見たのだ。途方もない疲労感と歓喜のなかで。

 その夜、ジョホールバル駅前のホテルに泊まる。翌日、マレー鉄道でコーズウェイを越える。その頃、シンガポール駅はまだマレー鉄道の終着駅だった。 

 アジア第3代表決定戦から9ヶ月後の、1998年8月の旅である。

2014年1月21日 (火)

函館日和の街歩き。函館市電「1日乗車券」を2枚買う。

9日目  2014年1月14日  函館     

 

 8:00。ホテルをチェックアウトするとき、函館市電の1日乗車券を買った。ホテルで買うことができたのには驚いた。

 

Cimg6092  函館観光のお約束として、函館朝市を見にいく。時間的にはあまり早いわけではないのだろうが、店仕舞いはしていない。買っていかないかと多くの店から声がかかる。強引な言葉はないし全体としては抑制された勧誘である。しかしちょっとでもその店の商品に関心があるふりをしてしまうとか、並べてあるカニなどを覗き込むものなら、詳しい説明が付いてくる。説明の根幹にあるのは、いかにこの商品が安いのかという点に集約される。ほんの数十秒の会話のなかに、帰る日、連れの有無、交通手段、どこから来たのかなどを聞き取られ、そのタイプによって、提案してくる商品を変えてくる。車でやってきた客がカニや紅鮭を持って帰ることはわりと簡単だろうが、遠方からの1人旅の者にはうにのビン詰が提案される。

 

Cimg6097  声をかけられるのが4、5店に留まるのならいいが、通過する店の多くが声をかける。彼らにとっては少なくとも隣の店で買われるよりは自分の店で買ってほしいということなのだろう。函館市の観光担当者が読むかもしれないので、それがうざいということをはっきり書いておこう。店にとっては目の前を通過する1回限りの客であるが、客は多くの店で同じタイプの勧誘を聞くことになる。

 

 函館朝市周辺ではおそらく函館市民市場商業協同組合のなかが最もレトロな感じだと思うが、建物内の店は閉まっていた。札幌から函館に入った11日は夜遅くこの辺りを通ったので仕方がないが、今日は開いていていい時間帯だ。2010年にはもう少し店が開いていたが、やはり地味過ぎて人が寄らなくなったのだろう。

 

Cimg6132  電停の函館駅前から終点の函館どつく前まで市電に乗る。函館どつく前から青柳町まで18の坂がある。魚見坂から青柳坂だ。そのうち魚見坂から二十間坂までを歩いてみる。2010年にもこのコースを歩いてみた。この辺りは、坂と古い家屋が溶け合っている。江戸時代の街道の名残りではなく、明治の近代的な住宅街の雰囲気がある通りとしては、日本で一番うつくしいだろう。

 

 函館市電が通る国道279号(この国道は函館から青森県の野辺地までを結び、海上区間は津軽海峡の津軽海峡フェリー航路という海上国道でもある。海上国道はここ以外にもあるけれど)から魚見坂や船見坂といったような坂を登り降りしながら雪の道を歩いたが、以前歩いたような感動はまったくなかった。滝川はおそらく普通の町なのだが、雪があることによって雑なレトロさを感じさせてくれた。函館はおそらく雪が多くのものを隠してしまったのだ。一応Cimg6131 2010年5月の写真と比べてみたが、やはり2010年の函館の写真は今日撮った写真よりはるかにうつくしかった。

 

 私は8つぐらいの坂を登り降りした。そのあと旧函館区公会堂や旧イギリス領事館などを見たが、雪のなかで一番うつくしいと感じたのは、元町観光案内所だった。その辺りから遠望できる函館港の風景は雪景色に映えていた。 

 ついでにハリストス教会にも行ってみる。昔はハリストス教会とトラピスチヌ修道院が函館観光の双璧だったが、赤レンガ倉庫が観光スポットになった頃から、観光の優先順位が変わってきたと思っている。

 

 ペリーは函館に来ていたらしい。函館の坂の途中にあったペリー提督来航記念碑があった。那覇の奥羽山公園駅(ゆいレール)にはペリーの名前が残った店や幼稚園があり、横須賀にはペリー公園がある。

 

 宝来町のほうに降りてもいいが、十字街のほうに坂を降りてゆく。十字街電停の北側に坂本龍馬の銅像がある。龍馬像は桂浜だけでいい。函館、京都、長崎、品川など他の地にあるのはどうかと思う。龍馬は多くの地を訪れているので、その気になれば銅像を日本各地に作ることができる。

 

 函館は、榎本武揚と石川啄木の街だった。榎本武揚は五稜郭に入城して新政府軍と戦った人物であるので、函館に銅像があるのはおかしくない。ただ私にとっての函館は石川啄木だった。1976年は村上龍が群像新人賞と芥川賞を受賞した年である。同じ年に外岡秀俊の「北帰行」が文藝賞を受賞した。「北帰行」は石川啄木の歌を自分の生き方と重ね合わせたU市(夕張)の青年の心情を描いた小説だ。評論家の江藤淳が村上龍の芥川賞受賞を認めず「北帰行」のような小説こそ受賞すべきだと語っていた。そのことについては同意できなかったが、それでも「北帰行」は30年近くの間私の本棚にあった。結局、ブックオフ行きのダンボール箱に詰め込まれてしまったが、気になる1冊ではあった。

 

 立待岬に石川啄木一族の墓がある。1978年、青函連絡船で早朝に着いた函館で、私が最初に見たのは朝日を浴びたこの墓だった。

 

Cimg6216  本来、函館と啄木の関係はもちろん墓ではなく、青柳町だ。十字街電停から谷地頭行きに乗り2つ目の電停が青柳町である。ここは近くに函館山公園があるだけの何の変哲もない住宅街だった。今日は、その先の終点谷地頭電停まで行ってみる。

 

 谷地頭電停で市電を降りようとしたとき、1日乗車券がない。左ポケットに入れておいたはずなのだ。すべてのポケットやリュックのなかを探してもない。坂を登り降りしているときに何度か地図を出して確認したが、1日乗車券は地図と同じポケットに入れてあった。おそらく地図の出し入れのときに落としたのだろう。

 

 その旨を市電の運転手に伝えると、そのまま降りていいということだった。ショックだ。切符を失くしたのは過去2回ある。上越新幹線のなかで「佐渡フリーきっぷ」(正式名称を忘れてしまっている)を、おそらく宮城県登米町からJR東北本線石越駅に向かうバスのなかで2日目使用中の青春18きっぷを落とした。前者は拾った人がいてくれたおかげで、新潟に着く直前の車内放送で知らせてもらったが、後者は出てこなかった。

 

 谷地頭電停周辺もまったく普通の住宅街で何も見るべきものはない。湯の川行きの市電に乗り、車内で本日2枚目の1日乗車券を買う。600円+600円=1,200円。まったく何をやっているのだろう。

 

Cimg6240  湯の川まで行かないで、五稜郭公園前で降りる。この近くに飲み屋街があったので寄ってみるが、以前感じたほど古い感じはなかった。五稜郭タワーまで歩く。タワーの前にド派手なラッキーピエロがあった。ここは函館にしかないハンバーガーチェーンで、その存在だけを知っていた。それが突如目の前に出現したのだ。ラッキーピエロは「僕らは皆んな映画青年だった」とか「サンタが函館にやってきた」といったキャッチフレーズを店ごとに付けている。五稜郭公園前店は「エンジェルたちのおしゃべり」だ。五稜郭タワーのなかの五島軒で函館カレーを食べようと思っていたが、地産地消のB級グルメ店の突然の出現により、どちらで食べるかを大いに迷う。

 

 先に五稜郭公園のなかに入る。2010年5月に来たときに函館奉行所はまだ完成していなかった(と思う)。今回、初めて入ってみる。この建物の復元に寄与したのは、パリの骨董品店で見つかった手のひらサイズの写真だ。屋根瓦の枚数などもその写真を解像度の高い画像でCimg6242 数えたらしい。私もパソコンの画面で拡大してみたが、確かに瓦の枚数を数えることができないわけではなさそうだ。

 

 五島軒で函館カレーを食べることにする。古風な感じがする。深くしっかりした味だ。五稜郭公園前電停にもどり、終点の湯の川電停まで乗る。これで函館市電を全線乗車したことになる。といっても大した距離ではない。そこから1つ前の湯の川温泉電停まで歩いてみる。

 

 湯の川温泉は初めて来る場所だ。雰囲気のある温泉街かと思っていたが、まったくそうではない。足湯はあるが、あとはわりと大きな温泉旅館やホテルがあるだけだ。湯の川電停から湯の川温泉電停の間に古い湯があった。そこは宿泊施設ではなかったが、月曜日という理由で今日は閉まっていた。

 

 湯の川温泉街から海側に行ったところに函館市熱帯植物園がある。今はそこにサル山温泉があり、サルが湯につかっている。ここは植物園であって動物園ではないのだけれど。結局、時間がなくて行けなかった。

 

 湯の川温泉電停から市電に乗り、十字街までもどる。これが今日5回目の乗車になったわけだが、ちょうど1日乗車券2枚分程度の金額にはなったと思う。

 

Cimg6310  すでに夕暮れだ。十字街電停から赤レンガ倉庫群に向けて歩く。日が暮れかかっている函館を照らすのはライトアップだ。帯広が一番うつくしいと思っていたが、赤レンガ倉庫が色に深みを与える分、函館のほうが華やかに感じる。

 

 少し早いが17:40のバスで空港に行く。空港までは20分。1991年(?)に1度だけ函館空港を利用したことがある。周りの緑がきれいな空港だったが、夜なのでよくわからない。曖昧な記憶だが、当時、東京行きは1日3便しかなかったと思う。今は羽田空港行きが1日9便になっていた。驚くのは、札幌の丘珠空港との間に10便のフライトがあることだ。

 

 函館空港の3番ゲート前に机があり、その前にコンセントがある。この日、3番ゲートはもう使われないようなので、ゲート前には誰もいない。広いスペースで静かにネット接続でき、旅日記を綴ることができた。

 

 19:35、JAL1170便は離陸。21:05羽田空港着。「北海道&東日本パスと奥尻島」の旅が終わる。

 

(備考)

 

 下の写真は、1978年8月の函館である。

 

Img_0011 [石川啄木一族の墓]

 

Img_0014 [函館山から見た函館市街]

 函館駅構内の広いヤードが残っている/2013年GLAYがライブを行った緑の島はまだない/赤レンガ倉庫を確認できる/北方民俗資料館の建物は確認できるが、その背後の高い塔のある建物は何だったのだろう

 

Img_0016_2 [五稜郭]当時函館奉行所はない

 

Img_0023 [函館市熱帯植物園]サル山温泉はなかった(と思う)

 

Img_0151 [青函連絡船から見た函館山]

 

2014年1月17日 (金)

函館にもどる。

8日目  2014年1月13日  奥尻島 江差 函館     

 

Cimg6040  7:40に民宿おぐろをチェックアウト。フェリーターミナルに着くとすぐに乗船が始まった。客は多くない。奥尻島8:15発のフェリーは5分遅れで出航した。船内アナウンスで海 上の様子が伝えられた。2日前とほぼ同じ状況だが、風は今日のほうが少し強いようだ。

 

 船体が左右に揺れながら前に進んでいる。横になっていないと気持ちが悪くなってくる。あと1時間半、あと1時間と、残り時間を意識しながら乗っていた。江差港着はほぼ定刻通りの10:40頃だった。

 

 バス乗り場はフェリーターミナルから2分ほどのところにあった。ほくでん(北海道電力)江差の前だ。函館から江差に着いたときは別のところで降りてしまったようだ。函館行きのバスは11:12の発車である。5分ほど遅れてバスがやってきた。乗り込んだのは6人だけ。Cimg6060 バスは日本海に沿って10分ほど北上したが、途中から内陸に入っていく。低い山の間をバスは抜けていく。雪景色が続く。一部の山際は雪が舞い白くぼんやりとした靄のようになっている。

 

 このバスは高速バスではない。途中のバス停で停車を繰り返す。江差に来るときに乗り降りした客がほとんどいなかったが、この函館行きバスは乗り降りが多い。とくに函館市内に入ってからは市内の路線バスのように頻繁に止まり、客の乗り降りが繰り返された。

 

 バスは函館駅前から少しはずれたバス停に止まった。函館も寒い。その近くにある函館麺屋ゆうみんで塩ラーメンを食べる。さっぱりしているのはいいが、まあこんなもんかという感じだ。癖になる味かもしれない。14:00前だったが、アクアガーデンホテルに行ってみる。Cimg6084 2日前に宿泊したホテルだ。時間前だったが、チェックインさせてもらった。ベッドに横になっていて、眠ってしまう。起きたら15:30だった。1月のこの時間では、まもなく日が暮れる。もう遠くには行けない。

 

 江差、奥尻島での滞在中、インターネットに接続できなかった。今日中にアップしたいのがあったので、部屋でブログに専念する。 

 

 18:30頃、ホテルを出て駅前を歩く。雪が横から降ってくる。道路の粉雪を舞い上げる。ブリザートだ。フードをしても耳が痛い。毎日、こんなことを書いている気がする。

 

 どんぶり横丁に行く。20店ぐらいの店が入っているが、ほとんどがうに丼、いくら丼などで店による違いはあまりない。2日前に来たときはもう少し遅い時間だったので、全店閉まっCimg6083 ていた。今日は開いているだろうと思い来てみたのだが、やはり全店閉まっている。あらためて2、3店の開店時間を確認すると6:00~15:00とか6:00~17:00といった時間帯で店が開くようだ。朝市に合わせて店が開くようだ。

 

 朝市周辺の店のほとんどは閉まっていた。大門横丁に向かう。ここは20以上の店が並ぶ屋台村だ。ラーメン屋も寿司屋も居酒屋も焼鳥屋もある。ほとんどが夕方から店が開くようだ。4、5人が入れば満員という店がほとんどで、カウンターだけの店が多い。どの店もあまりに狭いので入ることを躊躇するが、海鮮料理の店に入る。かに丼を食べる。

 

 大門横丁の大門という名は、大門遊郭に端を発している。明治時代、大森稲荷から松風町辺りまで函館遊郭があった。遊廓の門が大門と言われ、その周辺は大門と呼ばれていたらしい。大門という地名はないが、今でもその名残りが残っている。大門広小路という通り名はおそらくそこからきている。現在の住所は大森町や東雲町がそこに当たる。函館市電の松風町電停辺りだ。函館には、大門遊郭の前には蓬莱遊郭(宝来町)、その前は江戸時代からあった山ノ上遊廓があった。いずれも移転を強いられたのだが、それは大火に寄るものだ。

2014年1月14日 (火)

神威脇温泉で湯楽のとき。

 7日目  2014年1月12日  奥尻島   

 

 昨夜、寝たのが23:00頃で、起きたのが7:00過ぎである。熟睡した感じがあり、気分がいい。外はもちろん雪景色だが、雪は降っていない。風は少し吹いているようだが、強くないようだ。

 

Cimg5868   8:00過ぎに朝食。昨日おかみさんにコピーしてもらった奥尻町有バス時刻表は平成24年5月1日改正で、5月1日~12月30日までが対象となっていた。夕張で学んだこと、それはバスの運行時刻を確認しておくことだ。バスセンターはフェリーターミナルの前なので、少し早めに行ってみる。バスセンターといっても、フェリーターミナル前にバスが2台止まっているだけである。おそらく青苗方面(南方面あるいは西方面)行きのバスと稲穂方面(北方面)行きのバスだろう。たまたまドライバーがバスに乗るところだったので、いくつか質問してみた。

 

 「9:40の神威脇温泉行きのバスに乗り、終点の神威脇温泉の1つ手前の北追岬公園バス停で10:34に降りた場合、神威脇温泉バス停で折り返してくるバスの10:47発に乗ることはできますか?」という質問には、「北追岬公園は奥まで歩くので13分ではむずかしい。それに今は何もない」という回答だった。「島の西側や南側で北追岬公園以外の見所はありますか?」という質問には、「青苗の奥尻島津波館だろうが、おそらく閉まっている」。奥Cimg5870 尻島津波館が閉館であることはパンフレットで確認してあった。「北側のさいの河原はどうですか?」という質問には「行っても、雪が積もっているだけ」という回答だった。とても納得がいく。雪の海岸線は何度も見てきた。これで島の北側に行くことをやめた。「終点の神威脇温泉まで行き、温泉に入って14:00のバスでもどってくる」というのを勧められた。すばらしい提案だ。そうすることにする。このバスのドライバーに会わなければ、今日のスケジュールがどうなっていたのかわからない。バスが出発するまで少し時間がある。ドライバーに礼を言って、周辺を歩く。

 

 奥尻島は台湾と同じかたちをしている。米粒のようだ。奥尻島フェリーターミナルは東海岸の真ん中より少し北側にある。神威脇温泉行きバスはまず、海岸線に沿って南に走る。すぐに奥尻小学校、奥尻病院前、奥尻十字街、奥尻中学校といった奥尻集落のなかに入る。

 

Cimg5885  フェリーターミナルから奥尻の集落までは300メートルぐらいなので歩いてみた。奥尻町役場は小さかった。歩いている間に吹雪になっていた。どこかに避難したいが、さっきのバスがまもなくやってくるはずで、乗ろうとしている奥尻十字街バス停から離れるわけにはいかない。バスは近くまでやってきたが、手前の交差点を曲がって、奥尻小学校のほうに行ってしまった。奥尻病院前はさらにその奥にあるようだ。10分ぐらい経ってようやくバスが奥尻十字街バス停にやってきた。バスのなかでフードを取るとき、バサッと頭の上に雪が落ち、髪の毛はびしょびしょに濡れた。

 

 左手に吹雪く海を眺めながら、バスは赤石集落、松江集落を抜け、青苗集落に入る。赤石集落には小さな漁港があった。青苗は奥尻に次ぐ集落で、1993年7月の北海道南西沖地震Cimg5926 (M7.8)の際に津波に襲われた地区である。死者、行方不明者198名。奥尻島民だけではない、日本人の記憶に残る災害である。集落の南は半島のようになっており、その先のほうには奥尻島津波館が建てられている。奥尻島で一番行ってみたかったのはここだったのだが、12月から4月中旬までは閉館だ。バスのなかから眺めるしかない。この近くには青苗岬と青苗岬灯台がある。

 

 バスはここから北上する。奥尻役場、奥尻消防署のそれぞれの青苗支所を過ぎると、山の手というバス停を通る。この辺りの家は古くはない。山の手という呼び名からして、もしかしたら津波の被害者たちの新しい住宅が集まっているのかもしれない。山の手の2つ先が奥尻空港前バス停である。

 

Cimg5974  そこから北に向かう道路の周辺に集落はほとんどない。海側には、無縁島、ホヤ石岬、モッ立岩、カブト岩などの奇岩が次々現れる。北追岬とその近くに造られた北追岬公園を過ぎると神威脇温泉と神威脇漁港だ。バスは神威脇温泉の前に止まる。地図では奥尻集落の真西に位置するが、その間には、頂上に航空自衛隊のレーダー基地がある神威山584メートルがそびえている。

 

 約1時間のバス旅だった。バスに乗ってから雪が止むことはなかった。バスには私の他に、奥尻集落から乗った2人の女性の高齢者がいた。地元の人だった。みな、目的は神威脇温泉だった。

 

 バスを降りるとき「14:00の便でもどりますか?」とドライバーに尋ねられた。「はい」と答えると、「次のバスのドライバーには伝えておきます」と言われたので、親切だなと思ったが、そのあと「たぶんバスは来ると思いますが、この天候では場合によっては来ない可能性もあります。一応、(帰りのバスを待っている私がいることを)伝えておきますね」。バスの運行も限界ぎりぎりなのだ。夕張でも感じたが、ときどき視界が30メートルくらいになるなかをよく走っている。先に降りた2人も、温泉の建物に入ったところで、このあとのバスは来るのかね、と話していた。やれやれ。

 

Cimg5943  奥尻町営の神威脇温泉の建物はレトロだ。ひなびている。泉質はカルシウム、ナトリウム。隔月刊誌「島」が選んだ、全国の秘湯ベスト10の第7位だそうである。入浴料を払いタオルを購入する。以下は受付にいた男性との会話だ。

 

 「どこから来たのですか」と聞かれ「横浜から」

 「それはご苦労様なことで。いつ、いらっしゃったの?」「昨日、フェリーで」

 「フェリー揺れたでしょう?」「かなり」

 「飛行機は昨日止まったようですよ」「そうなんですか」。少しまずい状況である。

 「函館空港が閉鎖みたいだから」。飛行機が飛ばない理由は、函館空港の閉鎖と飛行機自体の故障のようだ。昨日、飛行機の整備士がフェリーで奥尻島にやってきたということだ。「この寒波が原因ですかね?」と質問したが、そこまでわからないらしい。

 「船も今日、来るかどうかわからないようです」「来ないこともあるのですか?」

 「ほとんどないけれど、今日入港しなければ、明日の朝は欠航になります」「えっそうなんですか?」

 「低気圧次第です。990ヘクトパスカルのようですから」

 

Cimg5935  旅先で私は天気予報や災害情報を知るのが遅い。今、初めて気圧を知った。台風と同じレベルだ。バス、フェリー、飛行機、すべての交通機関の運行が停止されるかもしれない状況にあるのだ。どうなるかは低気圧次第である。

 

 湯船に先客が1人いた。「奥尻から?」「横浜から」「また大変なときに」「いつもこんなふうではないのですか?」「こういうことがないわけではないけれど、今回は特別だね」

 

 温泉は源泉かけ流しだ。一部加水はしている。浴室からの夕日の眺望が絶景らしい。そう思う。今は吹雪だけれど。 

 

 バスでいっしょだったおばあさんが大広間の机をうまくセットできないので手伝ったら、みかんや菓子をくれた。畳の大広間には数人いるだけだ。今朝、かなり熟睡したはずなのだが、少し寝てしまう。こういう1日も悪くない。

 

 13:55、神威脇温泉の外にバスは止まっていた。天候はほんの少し回復したように思えた。バスは途中の奥尻空港前バス停で女性を乗せた。4人目の乗客だ。ドライバーが「今日、飛行機は飛ばなかったのですか?」と話しかける。女性は2日連続で奥尻空港に行ったが、函館行きのフライトはキャンセルになったようだ。女性は重そうなトランクをバスに積み込んだ。ドライバーとの受け答えに疲労の色を隠し切れていなかった。

 

 心のなかで、嵐認定委員会を開催する。委員長は私だけ。すべての決定権は私にある。議題は、今私の陥っている状況をと呼ぶべきかどうかである。

 

 結果を書いておく。と認定する。

 

Cimg5975  990ヘクトパスカルの低気圧、飛行機が2日連続で欠航、バスが止まる可能性がある、大時化によるフェリーの遅れ、また運行停止の可能性、岩見沢で180本の列車の運休・遅延、北海道の全観測点で2日連続最高気温が氷点下を下回る、島民が今回は特別と言っているなどの理由を鑑み、総合的に判断した。オリンピックのマラソンの選考会みたいだ。

 

 災害ではないことははっきりさせておく。しかしである。インド・ガンゴートリーのガンガー大反乱、フィリピンの台風30号、南大東島の“嵐”来島に次いで、「嵐を呼ぶ男」怒涛の4連勝である。インドやフィリピンのような誰にでもわかる国際的な大災害ではない。いくつかの情報の合わせ技1本での、せこい認定である。ただ甲子園では勝っていく度にチームは強くなる。こういう接戦をモノにしていくことが重要なのだ。私は何を書いているのだろう。

 

 帰りのバスに乗る。青苗で降りるかどうか迷う。もし降りた場合、17:00頃の最終バスに乗って帰ることになる。今日は日曜日なので、終点から終点までを通しで運転しているのは3本しかない。しかしバスが青苗を通過するときに吹雪いていたので、降りるのを止める。奥尻集落に入ったとき、空の一角が空いた。急に明るくなって、日が差し込む。空が青色だったことを思い出させてくれた。奥尻小学校前で降りる。ここからなら歩いて帰れる。奥尻小学校は平成元年から今までで生徒数が7分の1になっているようだ。

 

Cimg6033  奥尻集落からフェリーターミナルまで歩く。フェリー到着の10分前なのに誰もいない。フェリー入港前は、迎えの人や商店の人や宿の送迎や警察官らが港に繰り出すのが、正しい離島のあり方だ。もしかして、フェリーは入港しないのだろうか。ハートランドフェリーのチケット売り場に尋ねてみると、30分の遅れらしい。明日の出航は天候次第らしい。本当にぎりぎりに選択をしているようではあるが、出航すると宣言したあと出航できないのはクレームになる可能性があるので、あいまいにしているのかもしれない。

 

 フェリーターミナルのトイレから出てきたとき、空の一角に空いた青色の穴は塞がっていた。灰黒色の空は容赦なく雪を撒き散らしていた。空が明るくなってもほんの一時だ。冬の北海道の天気の変化にはついていけない。フェリー入港を見届けて、民宿おぐろにもどる。玄関で雪を払う。

 

 昨日、畳の間で会った人はいないが、今日は別の工事関係者が5人泊まるらしい。みんな仲間同士で、この宿の常連らしい。

2014年1月13日 (月)

“嵐”が厳寒の奥尻島を襲っている?

6日目  2014年1月11日  函館 江差 奥尻島   

 

 昨日でうまい北海道&東日本パスの旅は終わった。書き忘れていたことがある。うまい北海道&東日本パスの旅をおいしいにもっていく方法だ。誰でも考えつくことだが、連続するパスの使用日の前後に滞在日を設けることだ。あるいは鉄道以外の交通機関でしか行けないようなところに使用期限前か使用期限後に行けばよい。

 

 北方領土を除くと、北海道で行っていない島は3島だ。離島に行くのは普通の旅だ。どれだけ遠くても普通の旅である。しかし真冬の奥尻島に行くのは普通ではない。酔狂の部類に入るだろう。しかしこの時点で私はまだ、酔狂な旅にしか与えられないうんざりした気分を理解してはいなかった。

 

 奥尻島行きは予定の行動である。奥尻島には江差と瀬棚からの航路があるが、瀬棚からの船は夏にしか運航されない。江差からのフェリーは冬に減便されるが、毎日出ている。その江差には函館から鉄道かバスで行くことになる。

 

 江差には1993年に来ている。そのときは北海道旅行の最後に寄った。寄るには寄ったが、江差駅から坂を降りて、開陽丸を見ただけで帰ってしまった。あとになって古い町並みがあることを知り、残念に思った。

 

 函館から江差までの列車は1日5本、バスは1日6本だ。奥尻島行きのフェリーは江差13:10発である。

 

 13:10に間に合う列車は函館駅6:53発だけだ。函館駅10:27発の列車は12:55に江差駅に着くが、駅からフェリーターミナルまでが20分近くかかるため、フェリーの出航時刻には間に合わない。だから函館6:53発の列車しかないということになる。その場合、江差駅着は9:17である。

 

Cimg5726_2  1日6本のバスのうちの午前中に函館を出るのは2本だ。函館7:10発に乗った場合の江差着が9:19、函館10:30発の江差着は12:38だ。江差側のバス停は、フェリーターミナルに近い。函館9:19発のバスはフェリーの出発に合わせた設定である。

 

 JR北海道は今年の5月に江差線を廃止すると発表している。理由は乗降客数の伸び悩みであるが、こういうダイヤを組んでいれば、客離れが起きるのは当たり前だ。列車がバスと競り合うためには、函館駅を10:00発、江差駅12:25着にすればよい。江差線は津軽海峡線に乗り入れ函館駅に入るが、津軽海峡線は過密ダイヤではない。江差線の列車1本ぐらいは楽々通せるだろう。そもそも木古内と函館間のみにローカルの列車を運転しているのだから、それを江差線に入れたっていいのだ。そういうことをしていない。江差線を廃止にしたいJR北海道がわざと客離れダイヤを組んでいるとしか思えない。そしてこの度、念願叶って江差線を葬ることができるようになったのだ。

 

 奥尻島に行く前に江差の町並みを見たければ、函館発6:55の列車か函館発7:10のバスしかない。江差を素通りして奥尻島に行きたければ、函館発10:30のバスがぴったりだ。江差の街歩きを奥尻島からの帰りにすることもできる。帰りの奥尻島発のフェリーは8:15で、江差着が10:40である。このフェリーを降りて函館に向かう場合、利用できる列車は江差発13:07だけだ。2時間20分待ちである。「接続」という意味をJR北海道は知らない。行きと帰りの両方で、JR北海道は奥尻島行きの客をバスに献上しているのだ。

 

Cimg5733_2  函館発7:10のバスで江差に行くことにする。江差滞在4時間で古い町並みを歩く。そのあと13:10のフェリーで奥尻島に向かう。

 

 途中の風景はもはやお馴染みの雪景色である。吹雪いているときと小休止するときがある。いつ吹雪き、いつ吹雪が止むかはわからない。JR江差線は南側の上ノ国町から江差に入っていくが、バスは北斗市に入り、中山峠を抜ける。厚沢部町に入り、江差の北側に出る。途中に鶉という集落があった。砂川にも鶉入口というのがあった。

 

 タイミングがよくない。猛吹雪のなかバスを降りることになる。降りたのは江差町役場の前だ。うかつなことに江差は市だと思っていた。今日は土曜日なので役場のなかに入ることはできないだろう。吹雪のなかを5分ほど歩いて、フェリーターミナルに着く。今日の海上の様子がチケット売り場に掲示されていた。

 

 天候:雪。

 波高:3~4メートル。

 風向:北西。風速10~12メートル。

 お知らせ:海上模様により大きく揺れる可能性がありますので、足元には十分ご注意願います。

 

 フェリーが揺れそうな気配だ。南大東島に行く直前、那覇で買った酔い止めはまだ残っていたが、家に置いてきてしまった。フェリーターミナルに江差の地図が置いてあった。江差の古い町並みをいにしえ街道というらしい。フェリーターミナルにはエアコンもあるしストーブもCimg5751_2 置かれているが、全体として寒い。あまり温まる感じではない。それにいつまでもここにいるわけにはいかない。

 

 吹雪のなかを歩き始める。歩き始めて10秒で、外に出たことを後悔する。開陽丸の近くには開陽丸青少年センターがあるので、そこにたどり着けば、温まることはできる。

 

 風が雪をさらっている。雪は砂のように巻き上げられ、横に流れていく。ブリザートだ。昨夜の函館もそうだった。地面に落ちた雪の粉が風に流されていく。誰かが地面を雪で掃いているみたいだ。ここ江差も強い風が吹いている。前から吹いてくるので、フードが揺さぶられ脱げそうになる。手でフードを押さえるが、ポケットから出した手が痛い。ところどころで誰も通ったことのない場所を歩くので、足が20センチほど雪に沈むときもある。歌志内でも夕張でもそうだったが、すでに靴のなかが濡れている。

 

Cimg5753_2  遠くに見えていた開陽丸が近くなってくるが、誰もいないようだ。10分ほど歩いてたどり着いた開陽丸青少年センターには鍵が掛かっていた。道路を人が歩いた痕跡はないし、見えてきた開陽丸青少年センターに人のいる気配はなかった。もちろん開陽丸に入ることはできない。開陽丸は幕末にオランダで建造された幕府の軍艦である。戊辰戦争中に榎本武揚を乗せているが、江差沖で座礁、沈没した。内部には海底から引き上げられた遺物などが展示されている。

 

 開陽丸青少年センターの裏側の外階段の下に避難する。しかし雪を完全に避けることはできない。そこに居続けることはできないので、国道228号までもどり、いにしえ街道に入る。

 

Cimg5792  風と雪を避ける場所を探すことにする。自治体が古い町並みで売り出そうとしている場合、町の一角に休憩所が設けられている場合がある。それに古い家のなかに入れる場合もある。優先順位の1番目が避難で、2番目が観光になっている。写真を撮りながら歩くが、立ち止まる余裕はない。入れそうな建物には近づいて戸を開けようと試みるが、ことごとく閉まっている。

 

 カメラの望遠機能が十分に機能しない。レンズが前に出てこない。この寒さと関係があるのだろうか。あるいはカメラに付く雪の水滴が原因かもしれない、例え防水機能があったとしても。

 

 途中、郵便局の預金引き出し機のコーナーだけが開いていた。どこかにテレビカメラが付いているのは間違いないので、立っているだけで怪しい人間に思われてしまいそうだが、怪しくCimg5787_2 思われてもいい。しばらくそこで身体を温める。郵便局を出て、いにしえ街道を端から端まで歩き切る。地図では、通りの端に茶房せき川がある。そこが開いていることを期待したが、やはり閉まっていた。

 

 いにしえ街道はかなり整備された町並みだろうと思うが、雪で通りが隠されているので判断のしようがない。全体としては保存に力を入れているのだろう。一部の建物は新しく建てられたのではないかと思える。建物にも間断なく細かい雪が吹きかけられている。

 

 いにしえ街道の端から国道228号に入る。さっきのバス停を通過し少し進むと、江差追分会館/江差山車会館がある。ここは開いていた。あまり興味のある分野ではないが、これ以上、外を歩きたくない。温まりたいので入館したのだが、暖房は切られていた。おそらく入館者がいないからだと思われる。実際、館を出るまで、入館してきた人は誰もいなかった。

 

Cimg5820  ゆっくりと館内を回る。江差追分の映像を見たり、名人の録音を聴いたり、ずらっと並んだ名人の写真を見たりして館内を回る。できればここで少し休憩したい。椅子の近くにコンセントがあったので使わせてもらえるかどうかを確認したら、舞台のほうにあるコンセントを使っていいと言われた。そこは舞台であり稽古場でもあるらしい。ストーブが焚かれていたのだが、やはり寒かった。入館料には、希望者にたいする江差追分の体験も含まれている。

 

 北海道において江差の開発の時期は早かったらしい。その江差でにしんが取れなくなったのは明治時代である。それに代替するものとして江差追分を全国に普及させようとしたというのは江差追分会館の説明である。やや無理がある解説のような気がしないでもない。にしんが駄目なら他の産業、例えば繊維産業という道を模索するというのが普通だろう。結果として産業政策を文化政策に転換したということだ。それは立派な決断なのだろうが、経済はどうなったのだろうと考えてしまう。生活の手段を確保した上に花開くのが文化だ。江差追分という文化がにしん漁の衰退をカバーしたとは思えない。もちろんだからといって江差追分を否定するつもりはない。演奏を3回ほど聴いてみたが、日本古来の節というものを感じさせられた。

 

 江差追分会館と江差山車会館は同じ建物内にある。この日、ここは江差で唯一休館でなかった場所である。開陽丸、旧檜山繭志郡役所、旧中村屋住宅は12月31日から3月まで、横山家は12月から4月下旬まで、旧関川家住宅は11月から4月まで休館である。冬の北海道、冬の江差を旅することがどういうことなのかはこういう側面からでもわかる。

 

Cimg5836  出航の1時間前にフェリーターミナルに着く。ターミナルのなかはかなり賑わっていた。コンセントがあったので使わせてもらえないかを尋ねてみると、別の場所にあるコンセントを使わせてもらえることになった。そちらのほうが椅子の近くで使いやすいのだが、ゴミ箱で隠されてあった。

 

 出航の15分ほど前に乗船が始まる。席のほとんどは椅子ではなく、横になれる床席で、奥のほうはすぐに占領された。みんな、あっという間に好きな居場所を確保したようで、船内がどうなっているのかわからない私は入口の椅子がいいのか床がいいのか迷っているうちに出遅れた。それでも床席に一定のスペースを確保できたから問題はない。床席の奥のほうではコンセントが使えるが、その席を確保するのはむずかしかった。

 

Cimg5847  船内で、立ってあちこちに行く者は1人もいない。みんなすぐに横になる。誰も何も話さない。海は時化っていた。フェリーはかなり揺れた。トイレに行くとき、まっすぐ前に進めなかった。

 

 フェリーは13:10の定刻に出発したはずだった。奥尻島着は15:30の予定である。15:00過ぎには吹雪のなかに島影が見えていた。しかし到着予定5分前の15:25に館内放送が流れ、奥尻島入港が30分遅れるというアナウンスがあった。これには、慣れているはずの住民も、やや驚いたようだった。

 

 16:00前に奥尻港に着岸した。やはりというべきだろう、フェリーターミナルの観光案内所は閉まっていた。2階の軽食事処うにまるは5月からしか開かないようだ。ここが閉まっているということは、空いている飲食店を探すのはむずかしいと思われる。置かれてあった地図とパンフレットをもらっていく。予約してある民宿おぐろは送迎をやっていない。場所は大体わかっているが、フェリーターミナルの近くにあるがガソリンスタンドで場所を確認し歩き始める。

 

Cimg5859  300メートルほど歩いて、民宿おぐろに着く。新築といっていい民宿だ。宿帳への記入はなしで、部屋に通される。とてもやさしそうで気がつくおかみさんだ。バスの時刻を尋ねると、コピーしてくれた。フェリーが遅れたことを尋ねられた。フェリーの遅延はなくはないが、多くはないそうである。

 

 17:30頃、風呂に入る。18:00過ぎに夕食。畳の間の食堂には先客が1人いた。工事関係者の人だ。海の幸が中心の民宿の料理。品数は豊富でアワビがうまい。

 

 畳の間の大きな液晶モニターで天気予想をやっていた。昨日と今日、北海道全域の観測点でCimg5865 最高気温が氷点下を下回ったらしい。大きな低気圧が北海道をおおっている。岩見沢では180本の列車に遅れと運休が出たらしい。岩見沢は昨日通過している。1日遅ければ、巻き込まれていた可能性がある。

 

 が島にやってきているのかもしれない。NHKニュースだった。

山線乗って函館へ。

5日目  2014年1月10日  札幌 長万部 森 函館   

  

 カプセルホテルというのはやる気力を失せさせる。みんな風呂に入っているか、テレビを見ているか、ビールを飲んで何かを食べているかのどれかだ。そもそもそういう場所である。ブログを書いているやつなんていない。ニューカプセルリフレには漫画が20,000冊あった。キャプテン翼の7巻から15巻までを読む。南葛がFCバルセロナみたいなサッカーをやっていたことがよくわかった。南葛のライバルチームでバルセロナ型はなかった。作者の高橋陽一は先見の明があった。

 

 やることがない日の朝は遅い。今日はくつろげる日であることも手伝っている。函館に移動すればよいだけだ。迷うのは室蘭本線で行くか函館本線で行くかである。この選択にうまいおいしいかを適応するのをやめておく。普通列車なのでどちらも時間はかかる。

 

 函館本線で、小樽から長万部まで通しで乗れるのは1日5本の普通列車しかない。途中の駅まで行く列車はあるが、結局あとから来る終点まで行く列車に乗り継ぐしかない。函館本線は最初の北海道旅行のときに乗って以来である。函館本線に乗って小樽に寄るという手はある。

 

 室蘭本線のほうが距離は長い。札幌、函館間の幹線なのだが、普通列車で行くとなると面倒くさい。快速エアポートがある南千歳までは頻発している。苫小牧までになると列車本数は減り、東室蘭になるともっと少なくなる。その先の長万部行きを探す気にもなれない。時刻表がわかりにくい。しかし内浦湾の風景は悪くない。室蘭には2回行ったことがある。室蘭の市内はあまりおもしろくはない。ただ新日鉄住金の製鉄所の眺めはいい。もっといいのは、東室蘭駅から室蘭駅に枝分かれして走る鉄道の山側の雰囲気だろう。室蘭駅の1つ手前の駅が母恋という駅だ。ここは行ってみたいレトロな駅だが、室蘭本線で行く場合、支線への寄り道になる点が面倒なのだ。

 

 旅人というのは、あっちはいいけど、あっちのそこは駄目だというわがままな人種である。希望が繊細であるかどうかは人に寄るが、何らかのこだわりがある。こうみえても旅人は多くの現実から細い隙間を選択しながら動いている。

 

 函館本線を山線という。室蘭本線は海線である。海千山千ではない。

 

 北海道&東日本パスの最後の1日分の旅を山線に決めた。決めた理由はなんとなくである。30数年ぶりであるからというのが1番大きい理由かもしれない。

 

Cimg5584  まずは小樽まで行く。岩見沢からやってきた快速いしかりライナーは10分遅れで札幌駅に入ってきた。もともと札幌駅での停車時間を長く取っていたらしく、2分遅れの11:32に発車した。

 

 札幌を出たあとの窓の外は典型的な郊外の風景だったが、銭函を過ぎたところから海が線路のそばに見えた。荒れていないが、凍てついていることがわかるような黒と青と白とが混じった色だった。海岸線は少しだけ隠れることはあったが、冬の海の風景は小樽駅まで続いた。空は真上だけ青く晴れていたが、海の上には雲があった。空と海との境界線から雲が湧き出てくるようだ。不穏な感じがしないでもない。小樽にバスで行く人は多いようだが、コンサドーレ札幌の練習場のそばを通る以外に見所はない。バスはかなり山の上を通る。この区間は鉄道のほうがいい。

 

Cimg5600  終着小樽に着いた。車内アナウンスは「次は終着、小樽」だった。関東の都市部では普通、終点という言葉を使う「次は終点、小田原」。長野電鉄は終着駅である。「次は終着駅、長野」と告げながら、電車が地下駅に滑り込む。

 

 最後に小樽に来たのは2002年8月だ。改札を抜け、小樽駅前に出てみたが、乗り継ぎの時間がないのでどこにも行けない。駅左手奥に小さい店が並んでいるところがあったはずだが、そこすら行けなかった。行きたければ、早起きしろ。スターバックスでコーヒーなど飲まずに、早朝から小樽に行けということなのだろう。

 

 12:20の長万部行きは2両編成だ。釧路と根室の往復、釧路から帯広、帯広から旭川、千歳から新夕張と新夕張から夕張の往復の列車はすべて1両だった。快速いしかりライナーの客に加え、7分あとの12:16に小樽に着いた快速エアポートの客が乗り込むと、長万部行き2両編成には立っている客が出始めた。人気がある路線なのだろうか。英語の車内アナウンスもある。実際に外国人は乗っている。スキー板を持ってはいないが、スキー客っぽい。沿線にはニセコがある。

 

Cimg5618  小樽を出て余市で多くの人が降りた。列車には空席ができている。その後、少しずつ人が降りて、車内は落ち着いた。各自のスペースが増え、ローカル線の気楽な旅になっていく。しかし外は荒れていた。余市を過ぎたころから空のどこにも青はない。薄い白灰色だ。

 

 雪は少しずつ激しさを増してきた。列車が走ることによって雪が吹き上げられる。雪が舞う倶知安駅で12分ほど止まる。対向列車が10分ほど遅れているらしい。ここで別の車両から欧米系の外国人が降りたが、私のほうの車両にはまだ2組6人がいた。その外国人たちも比羅夫駅で降りていった。ここはスキー場でもあるのだろうか。そうでなければ雪山登山しかないが、それはないだろう。

 

Cimg5624  彼らが降りた列車のなかは急速に派手さを失った。旅人は見当たらない。地元の人たちばかりだ。途中で雲の切れ間から太陽の光が抜けてきた。雲が裏側から薄く輝いている。太陽の周りは日食のようでもある。針葉樹林の枝にまとった雪が光を放つ。

 

 ニセコ駅で多くの地元の人たちが降りたが、乗ってきた人も少しいた。そのなかには中国人もいた。

 

 昆布駅の近くには大きなホテルっぽい施設があった。蘭越駅でわりと多くの人が降りた。目名駅を出てから、列車は山を降りていく。山脈の分水嶺を越えたのかもしれない。列車が日本海側から内浦湾側に入ったということなのだろう。

 

Cimg5659  長万部駅に着いたのは15:15だった。ここが山線と海線の分岐点であり合流点だ。長万部は前から気になっていた。まず、おしゃまんべという読み方が気になった。どこか剽軽な感じがする。それだけなら倶知安、くっちゃんも似たようなものだ。函館からの列車が内浦湾に沿って走るところは海側に席を取ればかなり楽しめる。長万部はその真ん中にある。

 

 店に入り食事をしたいのだが、列車の待ち合わせは50分ぐらいしかない。駅の観光協会の前に地図とパンフレットがあった。駅横にレール&パークという表示があったので、鉄道公園でもあるのかと思ったら、列車に乗るときの車の駐車サービスに関するものだった。

 

 町には雪が積もっているが、大量ではない。万遍なく薄く町の表面を塗っているという感じだ。この辺の雪は細かいのでそんなふうになるのだろう。駅からまっすぐ海に向かって通りが伸びている。海の近くに、通りの名前が「3・4・6駅前通」と表示されていた。3・4・6が三四郎だとしたら、その人物にちなんで通りの名前を付けたのだろうか。もらってきた地図には通りの名前は掲載されていない。

 

Cimg5679_2  雪は止んでいて、真上の一角にだけ薄く青い空が見える。夕日がうっすらと空を染めようとしているが、天から送り込まれた光は海に届いてはいない。海は薄い青黒色だった。そのまま夜になるのだろう。岸は雪に覆われた白い浜が続いている。海まで届いていない光がなぜか浜の雪を薄い橙色に変えている。夜は海に、夕暮れは浜にやってきている。そこは荒涼とした風景ではない。寒く冷たい風景であるが、節度は保たれている。

 

 海に向かってカメラを向ける私の後ろをときおり車が通る。右は八雲、函館方面、左は室蘭、札幌方面だ。今度は海を背にして町中に入っていく。町は線路と海岸線の幅しかない。その分、線路と海岸線に沿って長く続いているようだ。八雲、函館方面側の線路と海の間を歩く。おもしろそうな家屋や建物はない。古い家屋もない。途中でRALSEマートというスーパーがあった。弁当を買おうかどうか迷ったが、駅前にかにめしの店があったので、買うのを止める。

 

Cimg5695  線路の横を走る通りが商店街だ。少しレトロな感じがしたが、あくまで少しだけである。結局、ほとんど見所を見つけることができなかった。駅から離れたところで、線路の近くにエゾカンゾウの群生する場所があるらしいが、もちろん今の季節の話ではない。少し離れたところに長万部温泉があるようだ。旅館は7軒あるらしいが、パンフレットを見る限り古びた旅館はないようだ。そこまで歩く時間もない。

 

 駅前のかにめし本舗かなやに入る。かにめし弁当はなかった。一瞬で空腹感が2倍になる。この町にかにめしの店は8店あるが、他の店はかなり遠い。何も買わないで、いや何も買えないで列車に乗り込む。16:08発函館行きはすでに入線していた。車両は1両だ。

 

 列車は下り列車待ち合わせのため5分ほど遅れて発車した。16:47に八雲駅に着いた。この町も気にはなっていた。地名だけで気になったりするのはよくない。行きたいところが限りなく増えてしまう。

 

Cimg5709  列車は森駅に着いた。ここも気になっていた町だ。この町では30分の停車だと時刻表にはあったので身構えていた。リュックを列車に残して町に出ようと思っていた。ところが到着間際のアナウンスは「15分停車します」というものだった。列車はいつの間にか15分ほど遅れていた。改札を抜けて、駅前だけでも歩いてみる。

 

 駅前はこじんまりしたものだった。他の北海道の駅のように、やけに広いということはなかった。駅正面に小さいホテルがあった。線路と並行して道路が走っている。左に行けば、函館方面で、右に行けば長万部、室蘭方面だ。町は大きくないようだが、夜なのでよくわからない。ちらほら舞っている小さな粉雪がネオンで光輝きながら落ちてくる。

 

 列車が森駅に止まっているときに、特急北斗96号が追い抜いていった。17:58、逃げるうさぎを追いかけ、亀がスタートする。うさぎが函館駅に着く頃、亀は数駅しか進んでいない。

 

 18:48、大沼駅着。景色のよいところを通過中なのだが、外は真っ暗だ。

 

 列車の乗り次ぎ旅は思った以上に疲れる。亀が函館駅に着いたのは19:24だった。栃木路を皮切りに始めた普通列車の旅を函館で終える。スペシャルサンクス、北海道&東日本パス。

 

 珍しくじゃらんで予約したアクアガーデンホテルは函館駅から徒歩1分、2,600円のホテルだ。前回、函館駅に来たのは2010年5月だ。青森を旅している最中、ちょっと寄ってCimg5716 みたくなったので津軽海峡線でやってきた。そのとき函館駅の変貌に衝撃を受けた。駅を出た瞬間の広い空間に驚いた。空がやけに広く感じた。何角形かの図形のかたちに天空が大きく切り取られたように思った。薬師寺の境内に入ったときのようにも感じた。そのがらんどうのような空間に透明な風が山から吹き降りていた。

 

 列車を降りたときホームを雪が巻いていた。改札を抜け駅舎に入る。ガラスの扉の向こうに雪に包まれた夜のやわらかな函館がある。自動扉が開くと雪が舞い込む。首をすくめ函館の街に踏み込んでゆく。

2014年1月10日 (金)

幸福の黄色いハンカチはどこにいったのか!

4日目  2014年1月9日  札幌  千歳  夕張   

  

 札幌8:56快速エアポート86号に乗り、9:24に千歳駅に着く。もう少しあとの列車でもいいのだが、千歳を歩いてみたいので早めの電車でやってきた。しかし西口広場に出た瞬間につまらない町であることがわかった。駅前は広く大きなタクシー乗り場がある。駅と直角にまっすぐ伸びる通りがあり、それと交わる広い通りがある。その通りを西に行くと、千歳川だ。駅前にもどり、少しだけ周囲をうろついたが、ここで止めた。駅にもどる。次の電車の待ち時間だけが残された。退屈という待ち時間ではない。寒い時間が残ってしまった。

 

Cimg5442  千歳発10:34の列車に乗る。新夕張着が11:45。晴れているので、雪景色がとてもきれいだ。新夕張駅で降りたホームの反対側に夕張行きの1両の列車が止まっていた。それに乗り換える。夕張まで行ってもいいが、清水沢駅で降りようと思う。新夕張が11:56発で、3つ目の清水沢に着いたのが12:08だ。

 

 清水沢駅は古いが、なかはきれいに保たれていた。ここは無人駅ではない。時間帯によっては駅員が1人いる。待合室の真ん中にストーブがあり、壁には古い夕張の写真が飾られてあった。1967年の夕張鉄道の夕張本町駅の写真があった。1965年頃の大夕張鉄道の明石町駅舎、千年駅舎の写真もあった。明石町、千年町は今誰も住んでいない大夕張の地名だ。

 

Cimg5447  外観が倉庫のような清水沢駅を出ると目の前にバス停がある。私は2005年10月、2006年8月に清水沢に来た。つまり財政破綻前と破綻後に来たのだ。2006年には清水沢から南部行きのバスに乗った。そのときは千歳空港から直接ここに来たのだが、乗ったのは(途中からは)今日と同じ列車である。

 

 12:01、南部行きのバスはすでに出てしまっている。バスの発車時刻を調べてきてはいないが、それは予想していた。循環線バスが12:19発だから、5分後にやってくる。循環線は清陵町に行く。そのあと、南部に行けるかどうかを考えればいい。バスの来る時間まで歩く。とりあえず清水沢駅の正面の坂を上がる。写真を撮りながら降りてきたら、前方奥にバスの後ろ姿が見えた。まさかと思い、時計を確認すると12:20だった。うかつだった。バス停にもどった時刻はバスがやってきた1分後だった。

 

 どうするかを考える。次のバスは循環線が13:32で、南部行きが13:36だ。鉄道は12:58の夕張行きがある。南部行き13:36に乗ることに決める。

 

Cimg5465  清水沢の町を歩く。狭い町だし前に歩いたことがある。北海道4日目で格段に上達したことがある。雪道や氷道の歩き方だ。小走りで走れるくらいにはなっている。清水沢の町は前と変わらない。財政破綻後も壊れてはいない。

 

 駅前食堂で天ぷらそばを食べる。前に入った店なのだろうと思うが、よく覚えていない。少なくとも内装は変わっている。天ぷらは都心の駅そばと同じレベルのものだったが、料金は倍近かった。店を出たとき、雪になっていた。

 

 駅にもどり、少しの間、パソコンで旅日記を書く。バスの時間が迫ってきたので、バス停に移動する。どうせ私しか乗らないだろうと思っていたら、お婆さんが2人待っていた。元気な人たちで雪の上に座ったり立ったりして遊んでいる。13:32の循環線のバスがやってきてCimg5503 出ていった。そのあとすぐに13:36の南部行きがやってきた。2人に続いて乗り込む。心配だったので、整理券を取ってすぐにドライバー席まで行き、このバスが南部ですぐに折り返すかどうかを聞いてみる。

 

 回答は、折り返すが営業運転ではないというものだった。衝撃である。それでは南部発の次のバスは何時かと尋ねると、今日はもうないと言われた。いくら何でもそれはないだろうと思うが、とりあえずバスを降りる。今は13:36である。それなら13:32の循環線で清陵町に行ったほうがよかった。私は南部に行き、折り返しのバスで清陵町に行こうとしたのだ。南部行きのバスのほうが少ないのだから、選択の優先順位は南部ということになる。最初に12:19発の循環線バスに乗ろうとしたのは、南部行きの待ち時間が長かったからだ。1時間に1本の清陵町に行く循環線バスを2本逃したことになる。今日だけで2回失敗している。夕張は勝手知ったる場所だと思い込んでいたのが、間違いだった。ちょっと舐めてしまった。

 

Cimg5452_2  駅にもどると、13:39発の新夕張行きが出ていった直後だった。もう最悪である。やることなすこと後手後手だ。どこにも行けなくなってしまっている。「捜査を立て直す」と室井管理官が言った、とインド旅の最中に書いた。旅を立て直す! 14:39の循環線のバスしかない。またまた余った時間で旅日記を書く。駅のなかにコンセントがあったので、駄目元で駅員に尋ねてみた。いいですよと使わせてくれた。いいこともある。

 

 行けなかった南部について書いておく。南部とは南大夕張のことだ。夕張は鉄道が多かった。国鉄(JR)石勝線の夕張支線、夕張鉄道、三菱大夕張鉄道、北炭真谷地炭鉱専用線などが夕張を走っていた。三菱大夕張鉄道は清水沢と大夕張を結ぶ路線で、その真ん中に南大夕張があった。南大夕張はまた夕張岳線、下夕張森林鉄道といった森林鉄道の分岐点だった。森林鉄道は登山者を乗せたりもしていた。

 

Cimg5493  現在、南部には大夕張鉄道で動いていたSLが保存されている。その近くに大夕張鉄道の小さなトンネルを見ることができる。その先にあるのはシューパロダムだ。アイヌ語で、夕張はシューパロとなる。本町にあるホテルシューパロには2度宿泊している。

 

 2006年、南部には郵便局も交番もあった。今でもあるかどうかはわからない。夕張川を渡ったところには廃屋群がある。そこはほとんど人が住んでいない地域であるが、当時、私の推測で2軒くらいの家にはまだ人がいた。犬が飼われていたし、車があったからそう判断したのだが、それも2006年の話である。

 

 そこからさらに奥に行くと大夕張であるが、南部からのバスはとっくになくなっている。現在、大夕張の人口はゼロである。炭鉱の閉鎖にともなって、全員が大夕張から退去した。もともと大夕張は国有地である。それを三菱鉱業が借りていたものだった。2005年に大夕張で車を走らせたが、そこにあったのは生い茂る草木だけだった。人の住んでいた痕跡を確認するのは難しかった。かろうじて草に埋もれた何本かの道と鹿島中学校の校庭を見つけただけだった。人が普通に住む町を形成していた場所だったのだ。

 

Cimg5502  14:39、循環線バスに乗る。10分ほどで清陵町に着く。清陵町は観光地でも何ではないが、炭住がある。炭住とは、実は普通の住宅に過ぎない。ただ単に炭鉱で働く人たちが住むから、炭鉱住宅つまり炭住なのだ。

 

 南部行きのバスに乗ると、清水沢から南部までの間に古い木造家屋の炭住を見ることはできる。正確に書くと、2005年と2006年には見ることができた。幸福の黄色いハンカチ想い出広場には炭住が移設されている。ここにある炭住こそがもっとも炭住らしい炭住である。

 

Cimg5526  清陵町は北炭夕張新鉱の開鉱にあわせて建てられた団地群である。1975年以降なので、古いタイプではない。単なる団地といってもいい。それでもここには夕張の雰囲気がある。清陵町の、この炭住団地群は夕張と新夕張を結ぶ幹線道路から少し入ったところにある。私は2006年にバスに乗ってここに来た。バスにはそれなりの数の人が乗っていた。その人たちが清陵町で降り、団地のなかに散っていったとき、ここが隠れ病棟のように思えた。

 

 吹雪いている。フードが風でバタバタ震える。カメラをポケットから出す手が痛い。人が歩いた形跡のないところは雪が深く足が埋まる。それでもなんとか15分で清陵町の団地群をジグザグに歩く。雪かきをしている人が1人いるだけだった。団地内の多くの部屋は使われていない。ここは夕張市議会で問題になった。理由は不法占拠しているとか、家賃の未収の問題だ。勝手に住み着くケースもあるようだ。部屋を改造して自衛隊の駐屯地にすればいいという意見もあった。3、4年ぐらい前までは積極的にそういう情報を集めていた。町議会の議事録に目を通したこともあるが、その後、どうなったのかを知らない。

 

Cimg5522  吹雪のなかをバス停までもどってきた。近くのコープさっぽろ夕張清陵生協の店に入る。少しでもあたたまりたい。北海道の家や店や(電車も)2重扉になっている。コープさっぽろ夕張清陵生協の最初の入口と店の入口の間に、何人かが座れる椅子があった。店はあったかいが椅子のあるところは寒い。それでも外よりははるかにましなので、店のなかでパンとコーヒーを買い、椅子に座って食べる。 

 

 店を出て少し歩き、15:41の循環線バスに乗る。乗ってすぐにドライバーに夕張駅着の時間を尋ねた。16:10頃に夕張駅前のホテルマウントレースイバス停に着くという。それなら大丈夫だ。普通列車で今日中に札幌にもどるためには、夕張駅を16:27に発車する列車に乗らなければならない。それが事実上の最終列車である。これよりあとにも3本の列車があるが、その先で普通列車の乗り継ぎがない。特急列車を利用すれば、選択の幅は広がる。

 

Cimg5547  雪が激し過ぎる。さっきから列車が動くのかどうかの心配をしないといけない状況になっている。バスは猛吹雪のなかを走っている。どこが道路なのか判別がつきにくくなっているし、視界も悪い。バスは1度スリップしかかった。夕張から札幌までのバスがあることはわかっている。最終的にはバスで帰ることになるかもしれない。バスの最終が何時なのかを知らないが、2006年にはバスで札幌まで出た。

 

 循環線バスは、少し遅れてホテルマウントレースイバス停に着いた。夕張駅では数人が列車を待っていた。入線時刻を過ぎているが、夕張駅に列車が入ってこない。10分ほど遅れて列車が入ってきた。客を乗せるとすぐに出発である。遅れてはいるが、動いたのでほっとする。

 

 夕張本町は夕張駅から20分ぐらい歩いたところにある。そこに行くことはできなかった。行っても、今日の雪では何もできないだろうと慰める。

 

 当初の私の予定では、清水沢駅で降りて、まず南部に行く。乗っていったバスの折り返しで清陵町に行く。そのあと循環線バスで夕張駅まで行く。そこから歩いて本町まで行き、また夕張駅にもどる。16:27発の列車に乗る。これが列車のなかでなんとなく考えたスケジュールだった。

 

 最近の国内の旅で、これほど予定の狂った旅はない。原因は7、8年も前の経験を2014年に適応してしまったことにある。夕張に行って、本町を見ないということは本来あり得ないことなのだ。夕張は国際ファンタスティック映画祭の開かれる町で、東京の青梅などと同じように、町中に古い映画の看板が商店などにかかっている。昔はそれほど多くなかったが、今はその数が増えているようだ。少し前に偶然、夕張のパンフレットを見たときにそう思った。そのなかにダイ・ハードのポスターもあった。マイフェアレディ、ローマの休日、サウンドオブミュージックなどの古いポスターが並ぶなか、新しい映画のポスターは興ざめだと思ったものだ。

 

 夕張を訪れる人のために書いておく。夕張は見所満載の町だ。なんといっても石炭の歴史村、幸福の黄色いハンカチ想い出広場、夕張鹿鳴館、めろん城、「北の零年」希望の館、滝の上公園、滝の上発電所などだ。初めて夕張に行く人はまずこういうところを見るべきだ。それ以外にも旧北炭清水沢発電所、旧北炭新坑口などの産業遺産がある。これらは予約が必要かもしれないが、公開されているはずだ。私は1度入ってはいけない施設に侵入したこともあったが、そういうことをする必要はなくなりつつある。

 

Cimg5563  列車が途中で止まる可能性もあったが、心配は杞憂に終わり、無事、千歳駅に着いた。18:41の快速エアポートに乗り、19:10に札幌駅に着いた。インドのガンゴートリーでのガンガーの大反乱、フィリピンでの台風30号に続き、南大東島で嵐を迎えた。2007年に爆弾低気圧の天気予報が出ていた会津を旅したときより、今日の夕張は吹雪いていた。これは爆弾低気圧だといっていいし、まぎれもなく嵐そのものであるが、列車が途中で立ち往生し自衛隊のヘリでも飛ばない限り、やはり災害に巻き込まれたとはいえない。ネタが途切れるのは残念至極である。

 

 今日のホテルはすすきのカプセルホテルだ。1キロちょっとなので、札幌駅から歩いてみる。歩き始めて後悔する。札幌は風が強く寒い。歩いている人が、今日は寒いと言っている。別の人は、今年一番の冷え込みらしいと言っていた。ニューカプセルリフレにチェックインする。楽天トラベルとじゃらんでは、金曜日の札幌のホテルはかなり予約がいっぱいの感じだった。今朝チェックアウトしたオリエンタルホテルは、今日の予約ができなかったのだ。

 

 最後に2005年と2006年の夕張の印象を書いておこう。

 

 まず2005年の感想から。この町は何かがおかしい。まるっとするっと変だ。仲間由紀恵のトリックのように変だ。なんだ、この石炭の歴史村の巨大さは。施設のなかにロボットやら他のものやら何でもあるじゃないか。そのくせ客はいない。客がいないのは私が朝一番で入ったからなのか。ずらっと並ぶ施設内の商店にはけっこう販売員がいる。私1人のために何人働くのだ。北の零年にこれだけ投資していいのか。

 

 こんなところが2005年の夕張についての私の感想である。しかし結局、私はおかしさの正体をつかめなかった。市の人口など経済指標を調べれば、何かがわかったかもしれない。しかし行く前は、夕張メロンと幸福の黄色いハンカチのイメージしかなかったのだ。

 

 帰ってきたあと、夕張破綻のニュースが流れた。

 

 破綻後の夕張を見てみたくなった。それが2006年に出かけた理由である。夕張の表面上は何の変化もなかった。当たり前だ。旅人に旅先の固有の事情などわかるはずがない。夕張市役所は縮小されていた。活気がなかったが、ハローワークでもないのに求人情報は充実していた。

 

 翌年の成人式への費用が出せないといったことがニュースになった。国際ファンタスティック映画祭への夕張市の出資は100,000,000円だが、それが打ち切られようとしていた。当然だろう。ホテルマウントレースイの前である人と話をした。その人は必ず映画祭をやると言っていた。

 

 9校あった小中学校に2校になった。市民税は上がり、下水道使用料も上がった。閉鎖中の図書館が雪の重みで倒壊したことはニュースになった。夕張市民病院はベッドをなくしたので、人工透析患者は他に移った。新しく瀬棚から医者がやってきた。この人は健康管理に注意し病人を出さない方針で病院経営を行った。私はそのドキュメンタリーを2本ほど見た。この種のことに反対したのは共産党である。インターネットを検索すると赤旗でその種のことがよく書かれていた。

 

 夕張の財政破綻を中心に据えたドキュメンタリーは何本もテレビで放映された。すべてのドキュメンタリーは、夕張だけではなく日本全国のどこで起きてもおかしくはないのです、と番組を終えていた。もうちょっとましな終わらせ方はないのかと思った。財政破綻の直後、香取慎吾が清水沢でインタビューをしていた。浅はかなインタビューのふざけた番組だったが、最近はマスコミのヘリがうるさくて困るという住民のコメントを引き出した点だけが唯一評価できた。どうせ1日で東京に帰ったのだろうが、私よりは金を使うわけだから、夕張にとってはずっと有益なのだろう。

 

 青森の羽柴秀吉が夕張市長選に出馬し落選した。これはもう茶番だった。

 

 2014年1月9日、私はさらにどういう変化があったのかを書くつもりだったが、まったく書けない。そのなかで1つだけ変わった点を発見した。黄色いハンカチがどこにもないのだ。1枚もない。2005年も2006年も、どこにいっても黄色いハンカチがひらひらと揺れていた。清水沢駅や夕張駅の窓には何枚もの黄色いハンカチがあったのだ。私のパソコンにはひらひらとなびく黄色いハンカチの写真が何枚もある。とくに鹿の谷駅には多くのハンカチがなびいていた。黄色いハンカチをなびかせて待っていても高倉健がもどってこないことがわかったからなのだろうか。それとも今日、私が周ったところがあまりに狭かったので、ハンカチを見る機会がなかっただけなのか。

 

 2011年、「幸福の黄色いハンカチ」は阿部寛と堀北真希によってリメイクされた。表情がなかったタイプの堀北真希がいい演技をしていた。北の町の気だるさと薄さが表情と演技に出ていた。阿部寛は高い身長を持て余してはいなかった。2人の身長差はとてもうまく画面に映っていた。見終わったあと、浜田岳はその低い身長であるゆえにあのドラマに抜擢されたのかもしれないと思った。

 

 リメイクの舞台は夕張ではなく、羽幌だった。夕張はもう商品価値がないのだろうか。夕張の人はどんな想いでリメイクのドラマを観たのだろう。いや観なかったのだろうか。

 

 旅人の感想を書いておこう。旅人は勝手なものさ。いいじゃん羽幌。行かねば羽幌へ。と思った。それだけだ。私は嘘をつきたくない。

 

 もしこのブログを夕張の方が読む機会があったのなら、夕張はいつ黄色いハンカチをなびかせなくなったのかを教えてほしい。

 

 

 

 

雪降る空知を路線バスで行く。古い旅を燃やす旅。

3日目  2014年1月8日  旭川 滝川 赤平 歌志内 上砂川 砂川 札幌

 

 旭川は雪である。ホテルで朝食を取り、駅に向かう。旭川駅はすっかり変わっていた。3回来ているが、調べてみると前回来たのは2002年8月だった。駅が変わったのは当然あり得ることだ。ただ乗降客数を考えると、過大投資であるのは間違いない。函館駅ほどではないけれど。逆に街中が変わったという印象はない。全体としてきれいになったとは思うが、劇的にではないと思う。

 

 8:08発の岩見沢行きに乗る。ホームで待っている人もいないし、3両編成の電車に乗り込んだ人はごくわずかで、私の乗った車両には私1人しかいない。今日は平日の水曜日である。岩見沢までだとはいえ、札幌方向ではないか。時刻表を調べてみる。私は何かを誤解していた。旭川から札幌方面に向かう普通列車は1日7本しかない。これでは根室本線と同じだ。

 

Cimg5131  車窓は一面の雪景色だ。この区間は稚内からの帰りにときどき乗ったことがある。冬にも乗った。そのときも雪景色だった。私のなかでは北海道の雪景色といえば、この区間がまず思い浮かぶ。

 

 どこに行くか明確に決まっていない。昨夜、インターネットでいろいろ検索をしたが、行き先を決められないまま寝てしまった。そしてそのままである。それでも電車に乗れるのは、フリーきっぷを持っているからだ。電車のなかでインターネットにつなぐが、駅周辺でしかつながらない。とりあえずなんとなく行こうと思っていた滝川で降りることにする。砂川まで行くよりはいいだろう。

 

 滝川着8:54。滝川、赤平、歌志内、上砂川、砂川の位置関係だけはつかんでいる。滝川からバスで、赤平、歌志内、上砂川のどこかの町に行きたいが、バスの路線がインターネット上ではイマイチよくわからなかった。滝川を9:37に発車する富良野行き列車に乗れば、赤平には行けるが、その前に滝川を歩いてみたい。9:37発の列車に乗れなければ、次は13:44発になるが、滝川駅前にある北海道中央バスのターミナルに行ってみる。この時点でおそらく9:37発の列車はあきらめることになる。

 

 バスターミナルで路線図と時刻表を交互に確認し、赤平、歌志内、上砂川を順につなぐバスルートは工夫できそうだ。理解するまで10分かかった。どのバス停で降りていいのかはわからないが、なんとかなるだろう。

 

Cimg5157  滝川の町を歩くというより、雪に包まれた滝川を歩くというのが正確な表現だろう。バスターミナルから奥のほうに歩いていく。雪は道路横に寄せられて壁になっている。2メートル近くある場所もある。雪は多くのものを隠す。だから少々町が汚くても、ほとんどわからない。町を歩く人は少ない。車もあまり通らないが、バスはときどき通っている。

 

 バスターミナルの奥は古いビルがいくつもあり、いい感じだ。歩いているとアーケードのある場所に着いた。ほっとする。ようやく軽快に歩くことができる。このアーケードが町の中心らしいが、生鮮食料品関係の店を除いてまだ開いてはいない。ミスタードーナツがあった。

 

 10:00前にバスターミナルにもどってくる。10:00発の芦別行きのバスに乗る。芦別駅には行ったことはないが、2005年10月にレンタカーで周ったとき、偶然、見つけたのが上芦別駅だ。北海道らしいよい駅だった。芦別行きのバスはさっき歩いたアーケードの横を抜け、東に走る。雪は止んでいるが、雪のなかを疾走する。道路は汚れている。山がだんだん近づいてくるが、山を登り始めるわけではない。40分ほど走ると、赤平高校など赤平の名前が付いた施設が現れてきた。赤平市役所前を過ぎ、JR赤平駅バス停で降りる。赤平は初めてである。

 

 赤平駅には交流センターみらいが入っている。ここは観光案内所ではないのだが、行政用の地図をもらった。そこには空知炭鉱遺跡群(住友石炭赤平炭鉱立坑、住友自走枠工場)の場所が記載されていた。縮尺はなかったが、それほど遠いわけではなさそうだ。

 

Cimg5223  芦別に向かう通りを歩く。この通りがどうやら町のメインストリートで両側には商店が並んでいる。ただし商店街というほど店が連なっているわけではない。ほとんどの店は開いていない。途中に、交流センターみらいに掲示してある写真で見た旧山田御殿があった。ここは赤平で財を成した山田三郎の邸宅だったらしい。

 

 道を尋ねた人から今は雪で空知炭鉱遺跡群は封鎖されていると言われたが、一応行ってみる。10分ほど歩いて、右手に曲がり、線路を渡る。住友立坑の建物が見えてきた。手前の雪の歩道を歩くか、車道を歩くかで迷う。雪の歩道と車道には高さ1メートル、幅2メートルの雪の壁があり、少し先でその壁を抜けることができるかどうかわからない。仕方ないので、車道を歩く。車がかなり通る。少し歩くと住友立坑の建物が見えた。しかし道路の反対側も道路と建物の間には3メートルぐらいの雪の壁があり、入れる場所はなさそうだ。周囲を歩いてみるが、雪の壁でどうにもならない。雪かきをしていないので、建物は雪に沈んでいるように見える。

 

 住友自走枠工場のほうも探してみるが、状況は同じようだ。雪で近づくことができないだろうから、早々にあきらめる。ズリ山も残っているのだが、そこに行った場合、普通の雪山を見にいくだけのことになってしまうだろう。

 

 すごすごと交流センターまでもどる。交流センターの前がバス停になっている。滝川行きが歌志内を経由するらしいが、待ち時間が40分ほどある。交流センターの椅子に座り、パソコンで旅日記を書く。

 

 12:15発のバスに乗る。バスが赤平の中心地を抜けようとしていたところで、炭住を見つけた。炭鉱住宅である。棟がいくつかある。現在、使われているのかどうかはわからない。交流センターみらいに昔の写真が貼ってあり、そのなかに古い炭住の写真があったが、そういうタイプではない。わりと新しい団地タイプで、夕張の清陵町のような感じだ。場所は、写真の旧炭住のあったところと同じかもしれない。しかし見つけたのがバスのなかではどうすることもできない。

 

 住宅は通りに沿って数珠繋ぎのようにある。途中で、芦別のほうに向かわないで、南のほうに進路を変え山のほうに入っていく。その風景に見覚えがあった。2005年に私はレンタカーで芦別側からやって来て、赤平のほうに行かないで、バスが今走っているのと同じ道に入ったのだ。つまり芦別のほうから歌志内に行ったということだ。

 

 この辺のバス停の名前に、○○市街という名前が使われている。文殊市街バス停、碧水市街バス停、歌志内市街バス停といった具合にだ。その町の中心地で降りたい場合、わかりやすい。○○市役所前や××病院前というバス停名では、それが町の中心である保証はない。

 

Cimg5247  上歌志内バス停を過ぎると、バスは歌志内市街に入っていく。歌志内市街バス停は郷土館ゆめつむぎの前だった。降りたとき、郷土館ゆめつむぎの玄関に貼られた本日休館の文字が目に入った。その瞬間にこの町で行きたい2つの場所のうちの1つに行けなくなっただけではなく(それは大した問題ではない)、雪の降る歌志内で休む場所がないことを自覚した。

 

 休む場所はあった。たまたま歌志内市街バス停は屋根付きだったのだ。なかに男性が1人いたので、歌志内のことを尋ねてみる。その人が語ったのは次のようなことだ。「歌志内は人がいなくなった。高齢者しかいない。郵便局の隣にあるスーパーはつぶれた。買い物は赤平に行く。隣の郷土館ゆめつむぎが休館だって? そこはいつも開いてない。ロマン座に行くって? そこも閉まっている。歩くのかい。ちょっと遠いよ。もうすぐ反対側にバスが来る。1つ目か2つ目で降りるとロマン座だ」

 

Cimg5288  話の中身は地方の惨状を語る際のあまりに典型的な内容である。それが実態なのだろう。礼を言って、雪のなかに出る。雪で道路の地肌がまったく見えない。郵便局はつぶれたスーパーの隣だ。2005年に来たとき、その郵便局を訪ねた。1988年に歌志内線は廃止になっていて、歌志内駅のあった場所が郵便局になっていたからだ。100%そうだと言い切れなかったが、おそらくそうだろうという情報を持ってここまで来たのだ。さっきの男性にそのことを確認しておけばよかった。郵便局は真新しく、駅の面影を残すものは何もなかった。それは今回も同じである。

 

 雪が見せるレトロな歌志内を歩く。写真を撮る。老婆と言ってもいい人から、何をしているのかと訊かれた。不審者にたいする詰問の感じではない。雪のなかで写真を撮る者にたいして純粋に不思議な感じがしたのだろう。旅行者であることを伝えると、ご苦労様ですと返された。私も傘を差していないが、みんな傘を差していない。途中のバス停で、バスを待っている人たちも傘を差していなかった。北海道の人は雪ぐらいでは傘を差さないのだ。

 

Cimg5271_2  雪に隠された歌志内を歩いても、実際のところはよくわからない。ただ、2005年、今歩いている通りに立って、新しい町並みなのだと思ったことを覚えている。雪のなかで今、その印象はもうない。くたびれてしまったという感じだ。人がいないわけではない。見かけた人の半分は屋根の上にいる。雪下ろしをしているのだ。ロマン座の場所がわからないが、視点を上げないと人と話せない。申し訳ないと思いながら、大声で屋根の上に「ロマン座に行きたい」と伝える。それを2回行い、大体の場所はわかった。信号のところまで行って、左折して、坂を登りきったら、ロマン座が見えるらしい。

 

 最初の人はバスがいいと言っていたが、1時間に1本しかない。坂は長くすべるのであぶない。雪がロマン座を隠していた。雪のなかにかろうじて看板が見え、その奥に半分埋まったロマン座が見えた。どこからも入れない。ロマン座の解説がある掲示板までも近づけない。

 

Cimg5311  ロマン座は、昨夜インターネットを検索していたとき、引っかかってきた。正式には、悲別ロマン座という名前である。そこは旧住友上歌鉱会館で、もともとは映画上映や舞台を目的とした厚生施設である。上歌は上歌志内という地名の略だろう。1971年に鉱山は閉鎖したが、ここはそのあと「幸福の黄色いハンカチ」に登場したそうである。2005年に来たときには、まったく知らなかったのだが、その期間は閉鎖されていたようだ。2008年に悲別ロマン座保存会により復活した。ちなみに悲別という地名はない。1984年の倉本聰のドラマ「昨日、悲別で」からきている。

 

 悲別ロマン座の近くに工場があり、その前に上歌志内バス停がある。北海道の建物にはひさしがない。だから雨やどりができないのだ。雪は小ぶりだが降り続いている。凍えながら15分立ち続けた。上歌志内バス停の山側に炭坑跡の遺跡が見えた。雪かきをしていないので数メートル埋まっていると思われるが、上の鉄塔部分のみが雪の上に出ている。

 

 やってきた滝川行きのバスに乗る。砂川までの間にまたしても炭住があった。やはりレンタカーは駄目だ。視線が前に集中するし、背が低いので発見できなかったのだろう。

 

Cimg5331  バスは上砂川の町に入っていく。歌志内から上砂川まではバスで15分の距離である。バスは商店街の連なる通りを抜けると、空き地のようなところに入り、折り返した。右の前のほうに客車らしきものが止まっている。降りようかどうか迷った。すると、斜め左横に座っていた私にドライバーがどこで降りるのかと尋ねてきた。上砂川市街という名前のバス停だと伝えると、そういう名前の停留所はないと言われる。滝川のバスターミナルでバス停の確認をしていたとき、そのバス停名があったような気がしたが、私の勘違いらしい。その場で降ろしてもらう。

 

 雪のなかをとりあえず客車らしきものの見えた方向に歩く。やはり展示されている客車だった。その前にあるのは旧上砂川駅の駅舎だ。2005年に来たときもなかに入れなかったが、今日も入れない。これは「昨日、悲別で」の舞台にもなった駅舎である。

 

Cimg5350  上砂川の町中を歩く。散髪屋や美容室が3店舗あり、花屋や電器屋もあるというのに、食堂はなく、食べ物を売っている店も閉まっていた。バスを降りた中央1丁目から中央3丁目までを歩くが休む場所がない。中央1丁目までもどり、旧上砂川駅舎の近くの商工会議所のなかに入る。そこで20分ほど休憩させてもらう。暖房はないが、外よりましだ。この間、雪は降りっぱなしだ。

 

 14:50の滝川行きのバスに乗る。20分ほど乗って砂川の町に入るが、このバスは砂川駅には止まらない。砂川駅の近くの市立病院前で降りる。そこには北海道中央バスのターミナルがあった。砂川の町を歩いてみる。西のほうに大きな遊水地があるが、町並みはそこで終わっているので、砂川駅のほうに歩く。町は東西に薄く、南北に長いようだ。すぐに砂川駅に着いた。駅前には島旅館があった。2005年に来たとき、すでに廃業しているようだったが、建物だけは今もそのまま残っていCimg5385 た。駅の正面南側におもしろそうな通りがあるので、入っていく。かなりレトロだ。多くはないが、喫茶店や食べ物屋が営業している。そういう通りは明るくなる。しかし中央市場と書かれた建物は店が数店あるだけで活気はなかった。

 

 砂川駅に入る。私は今まで停車している列車のなかから何度か砂川駅を見てきた。最初に見たのは、広い駅構内だった。函館本線の列車が止まるホームは、昔、歌志内線の列車も止まっていたホームだ。そこから何本かの線路をはさみ、ぽつんと離れたところに上砂川支線のホームがあった。函館本線のホームと上砂川線のホームは長い路線橋で結ばれていた。私は停車した函館本線の列車のなかからそれを見ていたのだ。

 

 夏の夜、函館本線の上り列車が止まった。稚内からの帰りだったと思う。離れた上砂川線のホームに1両の気動車がエンジン音を震わせえ止まっていた。ホームと列車の灯りが鉄路を照らしていた。

 

 1994年に上砂川支線は廃止になっている。それでも砂川駅の上砂川支線専用ホームはしばらくの間、ぽつんと放置されていた。やがて函館本線のホームとの間にあったレールがはずされていく。上砂川支線ホームは孤立していた。路線橋は残っていたが、おそらく路線橋のなかの通路は閉鎖されていたのだろう。

 

 2005年、旭川でレンタカーを借りた私は、美瑛と富良野を周った。翌日、上芦別駅を経由し、歌志内、上砂川に入った。それはここまで書いてきた通りだ。その日の最後は砂川だった。砂川の駅前に車を止めた。それまで函館本線の列車で通過するだけの町に初めて入った。そのとき函館本線と上砂川支線をつなぐ路線橋は撤去され、新たな路線橋の工事が行われていた。まさか上砂川支線のホームを活かすのかと思ったが、そうではなかった。路線橋はホームとホームを結ぶものではなく、駅の表玄関側と裏側を結ぶものだった。それは工事中だったのだ。止めた車の近くにあったのが島旅館だった。

 

Cimg5403  2014年1月8日。もちろんというべきだろうか、とっくにというべきだろうか、駅の表と裏をつなぐ連絡橋は完成していた。9年ぶりだ。それは想像以上に大きいものだった。駅の表玄関側は単なる入口(自由通路西口)だったが、反対側の出口は大きな建物が造られていた。連絡橋の通路はその建物のなかに入っていく。そこは地域交流センターゆうとなっていた。駅のなかには「お菓子で花咲くまち物語SUNAGAWA Sweet Road」のパンフレットが置かれていた。ちなみに砂川には北海道子どもの国という大きなテーマパークがあり、5月5日にはフェスティバルもやっている。それらは私の旅には関係がない。

 

 砂川駅17:15発の電車に乗る。雪は降っていないが、真っ暗な雪景色のなかを電車は走る。17:51に岩見沢駅に到着。17分の待ち合わせで18:08発のいしかりライナーに乗る。この電車は速い。18:43に札幌駅に着く。

 

 地下鉄ですすきのに出る。昨日電話で予約しておいた雪国食堂に行く。雪国食堂は栃木出身のママがやっている隠れ家的な店で、この店のファンが集まる。今回で3回目だ。2002年に札幌から増毛、留萌経由で稚内に行ったとき友人に紹介された。お通しの量が多い。ビール、ワインを飲みながら、家庭料理を食べる。味がしっかりしていてうまい。冬はおでんもある。ほっけがうまかった。

 

 そこから南に7、8分歩いて、オリエンタルホテルにチェクインする。2,250円。

2014年1月 8日 (水)

凍る根室。緑町、弥勒町を歩く。列車旅でどこに行く!

2日目  2014年1月7日  根室  浦幌  帯広  旭川   

  

 8:00前に部屋を出て、町を歩く。雪は残っているが、ほとんど積もってはいない。雪は凍っている。雪のないところも凍っている。だから普通に歩けない。根室は坂の町である。何度かころびそうになった。

 

Cimg4940  警察署、根室公園の前を通り、港のほうに坂を降りていく。海は見えているが、歩いているところから根室港には行けないようだ。根室港の東に金比羅神社があり、その辺りまで歩こうと思っていたが、このペースで歩いていると他には行けなくなりそうだ。少し引き返し、銀座大通りに入り西に歩く。普通の通りがうつくしい。雪の根室という表現は適していないと思う。氷の根室だ。いや凍る根室だ。空気が澄んでいるなかを差し込む太陽の光線は弱いくせに眩しい。

 

 弥勒町船だまりに行ってみるが、船はあまりなかった。緑町大通りを歩いていると教会があった。イオンの横の坂を登って国道44号線に出る。ここは昨日、納沙布岬行きのバスが通った道路だ。

 

Cimg4966  馳星周が根室を舞台に小説「雪月夜」を書いた。さっきから歩いてきた緑町や弥勒町が何度も出てくる小説だ。おもしろくて読み返したが、2度目はおもしろいとは思わなかった。ただ、ますます根室を好きになった。

 

 たいして歩いていないのに時間だけが経ってしまった。根室市役所に寄ってみる。私はたまに市役所や役場に寄る。行政機関はどこでもいっしょのように思われるが、特別な市や町の行政機関には特別な何かがある。例えば、宜野湾市役所には基地に関する掲示板があり、市民が誰でも短いメッセージを掲示できるようになっている。ほとんどは「普天間基地出ていけ!」のメッセージだ。破綻後の夕張市役所は何ひとつ変わらないように思えたが、かなり地味になっていた。そのかわりに本来ハローワークにあるような求人情報が置かれていた。根室市役所で発見したものは、謹賀新年の北方領土スタンプだ。年賀はがきなどに押せるようになっている。それを押して根室の人は友人知人に送Cimg4981 るのだろう。もらったほうは、話のタネになる。2014年の北方領土カレンダーをもらってきた。大きいので8つ折りにして持って帰らなければならないのが残念だ。三井住友銀行のカレンダーよりはおもしろい。

 

 宿にもどり、10:00前にチェックアウト。歩いて5分のマルシェデキッチンに向かう。なかのパン工房でパンを買い、イートスペースに持ち込んで食べる。昨日来たときにコンセントを2つ発見してあったので、パソコンをつなぎ、旅日記を書く。

 

 11:00前にマルシェデキッチンを出て駅に向かう。11:13発の釧路行き快速はなさきは入線していたが、十数人の客が並んで改札が開くのを待っていた。

 

 「北海道&東日本パス」4日目の使用開始である。昨日の釧路発の快速ノサップは途中9つの駅に停車したが、この快速はなさきは途中4つの駅にしか止まらない。11:50、昨日、下り列車を待った厚床駅に停車する。昨日忘れていたことを思い出した。ここは旧標津線が走っていた駅だった。昨日、下り列車の待ち時間の間に列車を降り、駅舎の外に出て写真を 撮ったとき、見覚えのある駅だと思ったのだが、すっかり忘れていた。2006年、レンタカーで旧標津線のいくつかの駅を見て回ったことがあった。そのとき、最初にこの駅に車を付けたのだった。

 

 浜中駅に入る手前で列車は警笛を鳴らした。線路に動物がいたのかと思ったら、そうだった。3匹の鹿が線路の外に出ていった。カメラを向けたが、写真を撮ることはできなかった。12:13、茶内駅に着く。下り列車の待ち合わせが5分あったので、外に出て写真を撮る。

 

Cimg4997  厚床駅で2人下車し、1人乗車する。浜中駅で1人下車する。茶内駅で1人下車し、3人乗車する。次の厚岸駅には2回来ている。2回目は車で寄っただけだが、1回目は愛冠岬に行くためここで降りた。駅にレンタサイクルは当然なく、愛冠岬は遠かった。厚岸の町中を歩いているときに見つけた自転車屋にお願いし、自転車を貸してもらった。あとから2人の女の子が自転車に乗って愛冠岬にやってきた。私が自転車を借りるのを見て、自分たちもそうしたらしかった。快速はなさきはその厚岸駅では2人を降ろし、10人ほどを乗せた。厚岸駅で快速はなさきはやや重量を増やし、釧路に向かった。

 

 列車は途中でまた警笛を鳴らした。鹿が2匹、枯れたススキのなかに逃げていった。やはりカメラは間に合わなかった。

 

 根室から釧路に向かう列車は2本の快速を含め、1日8本しかない。釧路駅着13:20。13:47発の帯広行きに乗り換える。乗り継ぎが悪くないのは、私が乗り継ぎのいい列車を選択しているからだ。快速はなさきの前に5:58発と8:22発の釧路行きがあるのだが、それらの早い列車に乗っても、今日の目的地に着く時間は同じなのである。

 

 改札を抜けて、駅構内でパンとコーヒーを買う。1番線にはスーパーおおぞら8号が停車していた。この型の電車はほんとにかっこいい。引退した500系のぞみもかっこよかったが、これには及ばない。車両の形式を確認したかったが、車両側面の下のほうにそれを表すものはなかった。

 

Cimg5008  スーパーおおぞらが発車したあと、1番線に1両の気動車が入ってきた。13:47発の帯広行きだ。これはおそらく古いタイプの車両だろう。しかし白に緑の帯が入っており、根室線の銀色の車両よりは私の好みである。帯広までの途中駅は13しかない。その全部に止まるが、帯広着は17:15である。計算してみると、駅間移動時間は平均18分という数字が出てきた。全駅ともに、隣の駅まで18分かかるということだ。本州ではあり得ない長さだ。さすが北海道である。

 

 昨日根室駅でもらっておいた道東を中心とした小冊子の時刻表が今日の私のガイドブックだ。途中の駅名を知っているのは、音別と池田であるが、降りたことはない。

 

 音別で多くの人が降りた。車内は5人だけになった。そのなかに昨日、納沙布岬でバスを降りた若いカップルがいた。男のほうは欧米系の風貌だが、言葉は完全な日本語でしぐさも日本人のそれだった。

 

 音別の次の駅は尺別という駅だが、小冊子の時刻表には載っていなかった。直別という駅も載っていない。駅間の距離があるのは、さすが北海道だと書いた記述については、ここで訂正しておく。時刻表は主な駅のみを抜粋して記載しているようだ。

 

 原野に倒壊した家屋があった。かなり古いものだ。もしかしたら十勝沖地震の被害家屋かもしれない。

 

 列車は海に沿って走っている。海はときどき見えて、しばしば隠れる。書いてみて、この表現はおかしいと思う。車窓を、海を軸に2分すれば、海が見えるか見えないかのどちらかになる。つまり両方を合わせれば100パーセントになる。しかし、ときどきとしばしばを合わせて100パーセントにはならないだろう。正確性を欠いた表現だ。「海が見え隠れしている」これでいい。

 

 窓から差し込んでくる日が弱い。列車が山あいに入ってから、とくにそう思う。葉の落ちた針葉樹林の枝が空を刺している。

 

Cimg5032  山あいを抜けると風景は少しだけ広がった。浦幌駅に入る。列車が停止したとき、アナウンスがあった「ここでの停車は30分になります」。やってくれるぜ、JR北海道。旅人を飽きさせないぜ、JR北海道。躊躇なく列車を出て改札を抜ける。駅員に15:55発であることを確認して町に出る。30分ということは1キロ先まで行ってもどってこられる。

 

 駅前からまっすぐ広い道路が伸びていた。そこを歩き始める。駅前に民宿があり、少し離れたところに旅館

があった。町は新しい。古い家屋はまったくない。2階建てか3階建ての箱型の家が広い間隔を空けて通りの両側に並んでいる。本州ならつまらない家並みと言いたくなるのだが、もともと北海道はこんな感じなのだ。家と家との間が欠けているのではなく、余裕がある間隔設定になっていることがわかる。それが北海道の家並みだ。

 

Cimg5047  見かけた飲み屋は2軒だけ。駅前からまっすぐ伸びた道路は300メートルほどで、別の道路と突き当たる。その道路はおそらく鉄道と並行しているのだろう。開いている商店はなかった。というより駅に通じる道路に商店はほとんどなかった。食堂はあったが、開いているのかどうかわからなかった。主に右手のほうに曲がったり脇道に入ったりしたので、わかりやすい道だったはずなのに帰るときに少し迷った。1分もかからず修復できたが、少しあせった。パソコンや服が入ったリュックは列車のなかなのだ。

 

 駅前までもどってくるが、ここまで人を見ていない。聞こえてきたのは車の走行音と駅前近くのニューラッキーから漏れてきたパチンコ音だけだった。駅前に、コズミックホールという名前の施設があった。商工会などが入っているらしい。なかに入ってみると、入口に職員が2人いて、奥のテーブルの1つで女子高生が3人おしゃべりをしていた。人がいて、人が集まる施設があるのはよいことだ。ところでこの町は浦幌町というらしい。浦幌町で私が会ったのは5人だけだ。

 

 この近くにどうやら道の駅うらほろがあり、フレッシュバーガーを450円で売っているらしい。どこにあるかわからない浦幌町博物館ではレコードコンサートを行ったり、フォト・サークル21が15周年写真展をやっていることがわかった。近くにある浦幌町森林公園ではふるさとのみのり祭りが9月の第4日曜日に行われるらしい。

 

 どこかの踏切がカンカンカンと鳴り始めた。下り列車が来たようだ。あわてて駅にもどり、乗車する。対向列車が2両編成でやってきて、先に出ていった。それから少し経ったあと、私の乗った列車は出発した。充実した30分だった。

 

 豊頃町の2つの駅を過ぎた頃、日が落ち風景はほとんど見えなくなった。私の根室本線の案内もここで終わる。16:40に池田駅に着く。沿線最大の駅である。1分停車ですぐに発車。 

 

 帯広着は定刻通りだった。18:03発の新得行きに乗ると、新得に着くのは19:03だ。そこでの乗り換えは、18:29に帯広を発車してあとからやってくる快速狩勝になってしまう。快速狩勝は旭川行きなので、帯広でそれに乗れば新得で乗り換えをせずに済むのだが、その列車の新得での停車時間は3分である。列車を降りて駅前を見るわけにはいかない。18:03に乗ると、新得での乗り換え時間は11分に増える。11分あっても何もできないことを承知しているが、「北の国から」で蛍が新得駅に行くシーンがあったのを覚えている。まあどうでもいいことだ。18:03に乗るか18:29に乗るかは帯広の町次第だ。

 

Cimg5099  帯広の駅を出たときの感想は、でかい、である。駅前の骨格が太いと言っていい。帯広を通過したことはあっても、降りたのは1978年以来だから、ほとんど初めての町だ。

 

 駅前の都通りを南に向けて歩く。途中、きれいな照明のオブジェがあった。帯広は至るところがライトアップされている。そこから平原通りに入り、藤丸まで歩く。そこはショッピングモールのようなビルだ。ちかくに広小路というアーケードがある。帯広の通りは広く、歩道も広い。街は碁盤の目のように区画が割り振られていて歩きやすい。並木はライトアップされているし、ネオンもきれいに見える。おそらく町全体の工夫なのだろうと思う。ただ路地がない。旭川がそうだ。路地がない街は、飲み屋などが表に出てくる。その分、街は明るくなるが、深みはなくなる。駅にもどろうとするとき、そんなことを考えていた。

 

Cimg5075  少し古いビルの壁に「北のうまいもん通り マルヒロセンター」と書かれているのを見つける。覗いてみると、ビルのなかの1.5メートルほどの通路の両側に小さい飲み屋が集まっている。なかに入って通り抜ける。まあまあおもしろい。こういうところもあったのだと思って、ビルの反対側に出たとき、さらにおもしろそうな路地が待っていた。「いきぬき通り北の屋台」と銘打たれたその一角は屋台通りだった。2メートルほどの通りの両側にそれぞれ10軒ぐらいの屋台が店を出している。そこを通り抜けたら、今度は「十勝乃長屋」と「和み小路」という2つの並行した飲み屋街があった。そこを抜けたところが名門通りだ。どんどん奥に引っ張られていく。帯広はおもしろい。「十勝乃長屋」と「和み小路」は「いきぬき通り北の屋台」より造りがしっかりしている。つまりハリボテでなく付け焼刃でもない。「いきぬき通り北の屋台」よりほんの少しだけ料金は高いかもしれない。

 

 名門通りはほんのちょっとだけ廃れた感じのする通りだ。あくまでちょっとだけなのだが、そこだけ道に雪と氷が残っていた。つまり道路を放置状態にしていた。

 

 それにしても「北のうまいもん通り マルヒロセンター」を見つけていなければ、帯広のおもしろい場所を素通りするところだった。まだそういう場所があるかもしれないので、さらに進んでみたが、広い通りの一角に出ただけだった。ここで街歩きは事実上終わりである。あとは駅にもどるだけだ。おそらく昼間に来るとそれほど大した場所ではないかもしれない。しかし期待をしていなかっただけに帯広の街歩きはおもしろいものになった。

 

Cimg5101  駅ビルに入ったところにある豚丼のぶたはげからよい匂いがしてきた。その誘惑に負ける。7、8分で料理を出せるというので、豚丼を注文する。豚丼は十勝の名物である。料理にこだわりがあり、うまいし、おいしかった。

 

 18:03発新得行きに乗るつもりでもどってきたが、これで18:29発の旭川行きに乗るしかなくなった。新得駅前を見ることはできなくなった。

 

 新得を出た列車は富良野を経由して旭川に向かう。根室駅でもらった小冊子の時刻表は旭川周辺をカバーしていなかったが、帯広駅で道内ポケット時刻表をもらった。これでどうやら北海道全部の列車のダイヤがわかるようになった。私は旭川までの列車の時刻しか調べてきていなかったので、明日からどう動くかの予定も立っていなかったのだ。

 

 道内ポケット時刻表で、富良野駅で滝川行きの接続があることがわかった。それがあるのなら、滝川のホテルを予約すればよかったのだ。私が調べた滝川行きは池田発18:50、滝川着が23:32で、それしかないと思っていた。それだと少し遅いので、旭川行きにしたのだ。富良野で20:39発に乗り換えれば、21:32に滝川に着くことはできたのだ。そうすれば滝川のホテルを予約していただろう。

 

 帯広発の列車は、富良野線に入ってから、英語のアナウンスも流れ始めた。観光路線はやはり違うと言いたいところだが、同じ列車内のテープなのだから、全駅で流せるようにしたほうがいいだろう。

 

 雪は降っていないが、列車が富良野線に入ると雪景色になった。富良野線のそれぞれの駅の光が雪に反射して青白く輝いている。

 

Cimg5112  11:12に根室駅を出てからの列車乗り継ぎ旅は21:42の旭川駅着で終わる。快適な旅だったのに、疲れている。列車の乗り過ぎからくる疲労だろう。今夜のホテルは旭川駅からまっすぐ進んで右手に折れたところにあるはずだ。記憶ではそうなっているが、名前を覚えていない。疲れているのでメールを確認する気にもなれないが、それではホテルに行けないので、列車が旭川駅の2つか3つ手前の駅に着いた頃に、パソコンを開く。HOTEL KANDA。そうだった、ホテル名が英語だった。2,980円。普通のビジネスホテルなのだが、競争のある地域はホテル料金がぐっと下がってくる。根室の民宿は素泊まりで4,200円だった。札幌にあるが、根室にないもの。旭川にあるが、根室にないもの。函館にあるが、根室にないもの。それはホテルの値下げだ。

 

 このホテルは22:00までにチェックインしろと楽天トラベルのサイトにあった。途中コンビニでビールを買ってチェックインしたのは21:55だった。

2014年1月 7日 (火)

“北海道&東日本パス”と“青春18きっぷ”。どっちが“うまい”か“おいしい”か。

2014年1月6日  釧路  根室   

  

 2013年12月28日、横浜駅の近くで用を済ませたあと、時間を持て余したので駅構内のみどりの窓口に入ってみた。何種類か置かれてあるパンフレット類を何気なく見ていると「青春18きっぷ」と並んで「北海道&東日本パス」のチラシがあった。手に取ってみると、7日間有効でJR東日本とJR北海道の普通列車が乗り放題。料金は10,000円だった。7日間という期間に驚いた。ついこの前までは5日間連続だったはずだ。5日間で北海道に行って帰ってくるのは難しい。しかし7日間ではどうか。検討に値する。チラシをもらって帰る。LCCの登場により、旅行評論家は航空会社同士の比較をよくするが、他の交通機関を含めた比較もしてみてくれ。

 

 家に着くまでに、北海道に行く気になっていた。しかし今の北海道を普通列車だけで旅をすることができるのかを具体的にチェックしてみないといけない。

 

 北海道には20回以上行っているが、鉄道の旅は多くないし、最近は鉄道で道内の長距離移動をしていない。最初に行ったのは1978年で、21日間有効の周遊券を使ったことを覚えている。そのときは常磐線経由の盛岡行き(たぶん)急行いわてに乗り、青森まで乗り継いで、青函連絡船に乗った。

 

 その頃の北海道旅行はまだ鉄道で入るのが主流だった。みんな、函館を過ぎた頃に現れるサイロを見て、北海道に来たことを実感した。しかし道東や道北に行く途中の北海道の雄大さを見たときに、函館を出た辺りで感動したことがバカらしくなったものだ。そうあの頃は、みんな入口から奥まで足を伸ばしたのだ。時代はまだ日本国有鉄道だった。瀕死の国鉄は廃線を進めながらも、まだ多くの地方交通線を残していた。それは普通列車がそれなりに走っていたことを意味する。日本一の赤字ローカル線である広尾線は、愛国から幸福行きの切符とともに健在だった。

 

 1980年代後半に1978年を縮小したようなコースで旅をしたが、その頃急行列車は大削減をされていた。それは北海道だけのことではなかった。1990年代中頃が最後の本格的な北海道の鉄道旅だった。その頃、夜行列車は主要幹線に1往復だけという具合になっていた。

 

 それから私の旅ははっきりと航空機に移っていく。もちろん私だけのことではない。ただ、それは北海道を分断する旅になってしまっていることに多くの人が気づいていない気がしていた。つまり北海道行きはエリアごとの旅になっていったのだ。釧路空港に降り道東を周る、旭川空港か稚内空港に降り、道北を周るといった具合にだ。私のなかでの北海道も分断されていった。以前はもっとつながっていたのに。

 

 北海道&東日本パスは使い始めた日から7日間連続が有効期間だ。一方、青春18きっぷは期間内の任意の5日間だ。青春18きっぷのほうは鉄道に乗る移動日と乗らない滞在日を分けてしまえば、使い勝手がよくなる。短い区間を乗る場合は、そこだけ別に切符を買えばいい。どちらがよいのかを考える必要がある。

 

 青春18きっぷは20~30回利用したと思う。数字に幅があり過ぎるのは、実際のところ、よくわからないからだ。春夏冬で連続3回使ったのが3年ぐらいあるはずだから、全体としてそれくらいにはなるのだろう。ただ、最後に利用したのはもう3年ぐらい前になる。青春18きっぷのチラシにはいつも写真が1枚だけ使われる。今回は城端線城端駅の雪景色の写真だ。いつもながら、いい1枚だ。

 

 北海道&東日本パスで、横浜から根室まで鉄道で行くルートを考えてみる。1980年代後半まではときどき時刻表を買っていたが、それ以降は買わなくなった。しかし多くの列車を検討するとき、やはりインターネットの画面ではやりにくいし、時間がかかる。

 

 北海道で行っていないところは留萌から豊富までの日本海側、稚内から湧別までの太平洋側、それに奥尻島、焼尻島、天売島の3つの島ぐらいだ。そのうちの1つぐらいを組み込んでの鉄道の旅を考えてみたい。

 

 横浜駅を6:30頃に出て9本の列車を乗り継げば、21:40頃に青森駅に着くことがわかった。そのあと、青森駅22:42発の「急行はまなす」に乗れば、翌朝6:07に札幌駅に着き、さらに乗り継げばその日の夜には根室まで行ける。列車に乗りっぱなしの旅だ。青森駅で「急行はまなす」に乗ることは絶対条件で、それ以外に2日以内に根室に着くことはできない。シミュレーションをしていないが、普通列車だけで2日目の夜には稚内にも網走にも着くことはできそうだ。ただこれはもう列車に乗り続けるだけの忍耐力テストになってしまう。

 

 津軽海峡線を急行「はまなす」で突破しても、石勝線のダイヤは難攻不落である。新夕張、新得間は普通列車が走っていないので、特急列車に乗ることができるのだが、新夕張駅に止まる特急列車が極端に少ない。また新夕張駅に止まる特急列車は普通列車との待ち合わせをしていない。馬に乗れない足軽(=普通列車の旅人)にとって、越すに越されぬ石勝線なのだ。滝川、富良野経由で新得に入るルートも考えたが距離が長くなる分、石勝線ルートとはどっちもどっちである。札幌から道東を結ぶ鉄道網はあまりに貧弱なのだ。

 

 国鉄時代の列車ダイヤはあまりにひどかった。乗り継ぎ駅で平気で3時間またせることがあった。それは2つ隣の駅に行くのに3時間かかることを意味する。JRになってから列車の運転区間が短くなり、編成車両数は短くなったものの、乗り継ぎ時間だけは改善された。ダイヤ改正は2年ごとぐらいに行われるようになったのも大きな進歩だ。しかしJR北海道の普通列車の不便さは度を越している。それはもう普通列車には乗るなと言っているようなもので、これではバスとの競合には勝てない。あるいはバスに負けたから、こうなったのだろうか。

 

 企業としてのJR北海道の存続はもともと無理がある。だからといって車両と保線に大事故につながるトラブルが多いのは許されることではないのだが、職員のモラル面を含め、おそらく全体を維持できないのだろう。JR四国も似たような条件であると思うが、北海道はあまりに広すぎる。私は以前からJR北海道はJR東日本に吸収合併されたほうがいいと思っていたが、東日本大震災の被災地の鉄道の一部をバスに置き換えつつある今、北海道との合併はもうないだろう(もともとなかったのだろうけれど)。

 

 釧路での乗り継ぎは最悪である。JR北海道のやる気がまるで感じられない。ダイヤ作成にあたって、この周辺で注意しなければならないのは、釧路周辺での朝夕の通勤通学だけのはずだ。あとは昼間の特急列車との乗り継ぎだ。極端に列車本数が少ないのだから、上下列車の行き違いの問題もそうあるわけではない。注意するべき点は単純明快であるはずだ。それ以外は乗務員の交代や住まいや労働条件の問題になってくる。そこで発生する問題をクリアできていないことがこのダイヤにつながっているとしたら、それはマネジメントの問題だ。しかしもう普通列車を運転したくないからそうしていると考えるのなら、客離れは彼らにとって好都合となる。根室から釧路まで列車に乗ってきて、釧路以西に行きたい場合、乗り継ぎ列車が到着の10分前に出発している場合がある。その際に釧路での列車待ちが3時間以上になるのは、公共交通機関にたいし、そうなる説明を求めていいくらいのことなのだ。ちなみに東海道線の列車は特に静岡県内における発着があまりに細切れになっているのだが、乗り継ぎ時間だけは考慮され、乗りやすくなっている。

 

 「急行はまなす」では、のびのびシートを確保したい。これは座席ではなく横になって寝ることのできるシートなのだが、一応申し訳程度の仕切りがあるらしく、あくまで座席という概念みたいだ。これは指定席を取る必要がある。この指定席の予約は競争率が高い。半数ぐらいが外国人だという噂もある。おそらくロンリープラネットに載っているかもしれない。これについては、JRサイバーステーションの予約サイトにアクセスしてみた。新年の普通席が空いていることがわかったが、細かい設定がされていないので、のびのびカーペット席が空いているかどうかがわからない。12月31日に横浜駅まで行ったが、1月1日から5日まで全列車満席だった。これで「急行はまなす」の利用はなくなった。

 

 列車で北海道に入ることをあきらめた。船で苫小牧などに入る方法もあるが、鉄道で行かないとなると、飛行機で行くことにためらいはない。ノーマルな方法にもどすことにする。期限切れが迫っているJALのマイルを振り向ける。

 

 ちなみに北海道&東日本パスにはアンケートが付いてくる。問は4つ用意されている。Q3の「このきっぷが無かったらどうされましたか?」の質問にたいし、回答は(1旅行しない、2青春18きっぷで旅行、3その他JR券、4バス等利用)の4つが用意されている。まちがっても1以外を選択してはいけない。1を選択することが、このきっぷを存続させる唯一の道なのだ。

 

 北海道&東日本パスの使用期限が1月10日までなので、フルに使用しようと思えば、1月4日にスタートしなければならない。飛行機の予約の関係で、1月6日から10日までの5日間北海道で使用することにした。1月4日と5日はJR東日本圏内を周ることにした。1月4日に栃木、5日に群馬を旅してきた。2つの旅についてはすでにブログにアップしている。

 

 今日のタイトルの解答をしておこう。うまいのは北海道&東日本パス。おいしいのは青春18きっぷ。以下に解答の解説をしておく。入試問題みたいだ。

 

 去年の夏、戸田恵梨香がサントリーのCMで“うまいか、おいしいか”とやっていた。“うまい”の使い方は食べ物だけに限らない。サッカーが“うまい”というように物事が上手であるときに使う。“おいしい”は基本的には食べ物の味がいいときに使う。ときどき芸人が「その展開は(自分にとって)“おいしい”」などと使うが、普段の生活でそのシーンは多くはない。味に関しては、“おいしい”のほうが女性的で、やや深い感じがする。逆に、“うまい”は男性的で、反射的に使ってしまうやや軽い言葉である(そう思っているのだが、自信があるわけではない)。

 

 北海道&東日本パスのほうが7日間で10,000円なので、よし、これなら北海道を周れると反射的に買ってしまいそうだ。青春18きっぷは5日間で12,500円なので、普通、北海道&東日本パスに飛びついてしまう。しかし青春18きっぷは、必ず移動日と滞在日を分けて使うようになるので、旅を吟味する必要がでてくる。だから青春18きっぷにより深いおいしいを使いたい。

 

 えらそうに解説してみたが、異論が出そうだ。これ以上は書きたくない。撤退する。いい加減、本論にもどせよという声が聞こえてきそうであるし、私もそうしたいので、そうする。

 

Cimg4768  羽田空港8:05発のJAL1145便は、たんちょう釧路空港に9:40に着陸した。機内でマイナス10度とアナウンスされた。北海道の人はしばしば気温にマイナスをつけない。

 

 空港を出たところに市内行きの阿寒バスが待っていた。釧路駅までのチケットを買って乗り込む。このバスの発車時間は決まっていない。飛行機が着いてから10分ぐらいで発車するしくみになっている。

 

 雪は降っていない。雪は道路脇に固められている。つまりここ数日雪は降っていないということだろう。市内までは50分ほどだ。

 

 バスは釧路駅のあと十字街7丁目、MOOバスターミナル、市役所のほうにも向かう。空港でもらった地図にMOOが載っていた。弊舞橋のすぐ近くだ。駅で降りないで、そこまで乗っていくことにする。

 

Cimg4783  バスは釧路駅を過ぎたあと北大通を南に向かった。フィッシャーマンズワーフMOOは商業施設だった。釧路で最もおしゃれな場所なのだろう。釧路は2回に来たが、最後に来たのが20年ほど前で、町を歩いたのが30年以上前では話にならない。私にとって釧路は通過点で、最も縁遠い町だった。釧路の町で過去の記憶が通用するのは弊舞橋と釧路駅ぐらいだろう。弊舞橋周辺は著しく変わったのだと思う。もっとも変わったかどうかさえよくわからない。

 

 弊舞橋から末広町や栄町のほうに入っていく。そこから駅のほうに向かう。釧路の道路はざらざらしている。雪が積もっても転びにくいようにするための配慮なのだろう。それでも雪が少し積もっている場所では注意が必要だ。15分ほど歩いて、釧路駅に着く。釧路駅は記憶のなかのままだった。

 

Cimg4800  駅舎のなかに多くの人がいた。多くの人は札幌のほうに向かうのだろう。明日、歯医者の予約を入れてしまっているので、電話をして日にちを変えてもらう。2013年の最後の日に予約を入れた。歯医者は今日の10:00が今年の仕事始めなのだ。北海道に来ることをまったく想定していないので、こんなはめになる。

 

 さあ、北海道&東日本パスの3日目分を使う。根室に向かう。11:13発の1両の快速ノサップは2番線に止まっていた。北海道の駅で遠くからやってくる1両の列車を見ると心配になる。ホームに大勢の人がいる場合など、本当に乗れるのだろうかと思ってしまう。しかし乗れてしまうのだ。おにぎりとコーヒーを買って乗り込む。接続の特急列車が遅れているので、12分遅れで発車した。

 

Cimg4823  快速ノサップは全駅に止まるわけではない。特急でもないのに快速だからという理由でがんがん飛ばす。車両後方から後ろの風景をみると、走行するときの風で線路の雪がかき揚げられている。

 

 厚床で対向車を待つため停車する。落石岬の近くの海の風景はすばらしい。落石岬に行ったのも2006年だ。落石は、「北の国から」の蛍が住んでいたアパート、診療所、そして凧屋食堂のロケ地だ。

 

 落石駅の次の停車駅は根室駅だ。東根室駅を見過ごしてしまった。ここは日本最東端の駅なのだが、おそらくホームが1面しかなく、反対側の車窓を見ていたためだと思われる。

 

 根室駅を出たところに根室交通のバスが止まっていた。納沙布岬行きのバスだ。出発は5分後らしい。目の前が観光案内所だったので、根室と納沙布岬の地図をもらい、チケットを買って乗り込む。納沙布岬までは、バスのなかで買うより、バス待合室で往復チケットを買ったほうが安くなるみたいだ。

 

Cimg4870  13:45のバスに乗れたのはラッキーだった。曜日によって異なるが、納沙布岬行きは1日7、8本しかない。根室に来たのは4回目だ。納沙布岬に行くのは3回目である。稚内に行って宗谷岬やノシャップ岬に行ったのは1回しかないが、根室だと納沙布岬には行きたくなるのはなぜなのだろう。

 

 バスは根室市内を走っていたが、教員住宅前バス停を過ぎた頃から、一転して郊外の風景になる。荒涼とした風景のなかを走る。根室市内は雪が少し積もっていたのに、この辺りから雪はまったくなくなった。根室市内とこの辺りは数キロしか離れていないので、ここだけ雪が降らないとは思えない。あくまで推測だが、この辺りは風が強いので、雪が風に吹かれたり流されたりして解けてしまうのではないか。この辺にある池は完全に凍っている。

 

 途中に歯舞という地名があった。北方領土の島と同じ地名である。根室市内と納沙布岬との間には北方原生花園があるのだが、今回も含め3回とも発見できなかった。

 

Cimg4889  納沙布岬でバスを降りたのは3人だった。納沙布岬の灯台に向かう。その途中、海に放置されていた難破船は撤去されていた。私がそれを見たのは2006年10月だが、友人が2004年12月に同じものを見ている。この難破船は撤去する予算がなく放置し続けるのだろうと思っていたが、そうではなかったようだ。

 

 灯台への道の途中にはさまざまな牌がある。いずれも北方領土が返ってくることを願う日だ。2月7日の北方領土の日には集会などが開かれ、根室は盛り上がる。灯台の奥のほうには野鳥観測小屋のようなものがあった。

 

Cimg4897  四島のかけ橋は北朝鮮にあるようなモニュメントを想起させる。今日はすべての建物が閉まっている。NPO法人が運営している巨大なオーロラタワーも北方館望郷の家も休館だ。それに合わせて観光物産センターも閉まっている。人もほとんどいない。寒々とした風景があるだけだ。

 

  雲はあるが空は晴れている。空気はきれいだ。貝殻島の灯台が見えるが、潮の関係なのだろうか、陸地は見えない。水晶島もはっきり見える。国後島の羅臼山も見える(知床の羅臼岳ではない)。もっと見えているのだが、解説してくれる人がいないので、見えている島の判別がつかない。

 

 15:10のバスに乗る。根室駅にもどってきたら16:00になっていた。日が落ちるのが極端に早い。まだ日はあるが、まもなく夜になろうとしているのがわかる。

 

 予約してあった民宿ときわに向かう。根室駅からまっすぐ伸びている通りを進み、国道44号線を東に向かう。ときわ台公園の前を歩き、市役所を過ぎ、根室振興局の前を左折する。少し歩いたところにあるはずの民宿ときわがない。あったのはレジデンスときわだった。周辺も探してみるが、民宿風の建物はない。人通りが少ないので会った人全員に尋ねると、3人目のCimg4929 人が知っていた。前は近くにあったらしいのだが、場所を変えたそうだ。ベスト電機の近くだと教えてくれた。私は古い情報を見ていたようだ。ホテルの予約サイトに根室のホテルはほとんど掲載されていない。あるのは泊まったことのある根室グランドホテルだけだ。今回、私は電話で予約をしたが、そのとき住所までは確認しなかった。

 

 その根室グランドホテルの先にベスト電機があり、その前に民宿ときわはあった。部屋は30室ぐらいあるようだった。少し休んで、外に出る。

 

 駅横の一角に何軒かの食堂や飲み屋があるので行ってみる。入ったことのある食堂があったが、一瞬、入るのを躊躇する。看板にラーメンの文字が入っていた。店の経営が変わったか、私が店を間違えているかのどちらかだった。内装が新しくなっていた。前に来たときに、ここで何かの定食を注文した。そのとき、注文していないいくらがかなり多く出された。サービスで出されたものだった。それがあったので今回も入ってみたのだが、やはり経営は変わったと思ったほうがいいようだ。

 

 近くのマルシェデキッチンにはイートスペースがある。そこでコーヒーを飲む。外は恐ろしく寒い。18:00前に宿にもどる。

 

 この辺で根室の長い1日を終えよう。長いのは今日のブログのことなのだけれど。根室は1月7日の3:00である。

2014年1月 6日 (月)

横浜駅8番線から碓氷峠まで

2014年1月5日  高崎 横川 磯部 安中

  

 昨日と同じように、横浜駅10番線から乗ろうとしたが、高崎線籠原行きは出発したばかりだった。東北線の宇都宮行きに乗り、大宮で乗り換えるという手もあるが、それも15分ほど待つことになる。8番線に回り7:22発の東京行きに乗る。新橋で山手線に乗り換え、上野で8:02発の高崎行きに乗った。

 

 今まで、大宮以北の高崎線の多くの駅に降りてきた。上尾、桶川、北本、鴻巣、吹上、熊谷、深谷、本庄などだ。とくに深谷と本庄を気に入っている。熊谷駅の近くには遊郭跡も残っている。東北線の駅は古い町並みが少し残っているが見ごたえはない。薄い感じがするのにたいし、高崎線の町々は存在感がある。暇ができれば、また行くことになるだろう。と書いて、現在、暇は大いにあるが当分は行かないだろうと付け足すことに決めた。わざわざでかけていくかどうかはちょっと別の問題だ。

 

Cimg4516  高崎駅で20分ほどの待ち時間があったので、改札を抜け駅前を歩く。駅前の大きさに比べ、人通りは少ない。日曜日の昼前だからかもしれない。APAホテルの独特の入口を見たとき、そうだここに泊まったことがあるのだといきなり思い出した。

 

 10:23、信越線の電車は高崎を発車した。高崎から横川までは30分強で行ける。電車は山のなかを走り始めたと思ったら、すぐに横川に着いた。

 

 横川に着いたとき、ホームには大勢の人がいた。反対側のホームにはSLと客車が止まっていた。12月末から2月まで「冬もSLに乗って碓氷峠へ」というイベントが6回開かれ、今日がその1日らしい。安中総合学園高校の生徒が和太鼓を叩いて Cimg4589 出迎えるというもてなし付きだ。

 

 駅を出て、近くにある碓氷峠鉄道文化むらに入る。横川には1997年に来たが、そのときはおぎのやの峠の釜飯を食べただけだった。2004年10月が2度目だが、そのときこの碓氷峠鉄道文化むらに入っている。碓氷峠を中心に活躍した特急電車や電気機関車の展示だとばかり思っていたが、まったく関係ない場所で動いていた車両も展示されているらしい。近くで見る電気機関車は思った以上に大きく、迫力がある。建物内には鉄道模型のジオラマや土産物屋もある。大人も子供も楽しめる施設だ。

 

 この施設のなかからトロッコ列車が出ているらしい。2004年時点でこの列車があったかどうかはわからない。あったとしたら、そのとき私は完全に見落としていた。トロッコ列車のCimg4547 終点はとうげのゆ駅で、そこには峠の湯という日帰り温泉の施設があるらしい。そこに行く人たちがチケットを買っていた。その近くには坂本宿があるが、写真で見る限り、ちょっとつまらなそうだ。

 

 とうげのゆ駅からさらに高いところにある熊ノ平までトンネルを歩きながら登れるようだ。一番長いトンネルの長さは546メートルである。横川はレクレーション施設がかなり充実している。私はすっかり見落としていた。ここは丸1日遊べる場所のようだ。

 

 前回と同じように狭い横川の町並みを歩く。新しい家屋はほとんどない。何かがなくなっているという感じもない。通りから少し入ったところにある神社も昔のままだった。しかし賽銭箱がなかった。私は前回お参りをしたはずだ。私は全国の寺や神社にお参りをしている。賽銭Cimg4582 箱にお金を入れないということはありえない。だとしたら、そこは以前と変わったということなのだろう。

 

 駅前にテントが貼ってあり、その横でおぎのやの峠の釜めしを売っていた。テントのなかの椅子で峠の釜めしを食べる。以前、峠の釜めしを駅のベンチで食べ、釜自体を捨てることができず、持って帰ったことがあった。次のとき、それが嫌で、おぎのやのなかで食べたのだが、売り物の釜めしがそのままテーブルに置かれた。別の器に入れたほうがいいんじゃないかとは思ったが、それだと釜めしではなくなるということか。

 

 横川は楽しい場所であるらしいが、坂本宿に行くつもりはないし、峠の湯に入るつもりもなかった。ただトロッコ列車に乗って上まで行き、さらにトンネルを超えて熊ノ平まで行くかどうか少し迷った。

 

 結局、13:08の高崎行きに乗り、3つ先の磯部駅で降りた。

 

 駅前の広場に立って、ちょっとわくわくした。おもしろそうな予感がした。タクシー会社の上にはレトロな看板があり、商店名などが書いてある。その隣りに奥のほうにいく道があるが、そこには歓迎磯部温泉と書かれたアーチがあった。

 

Cimg4642  アーチを潜り、町のなかに入っていく。まっすぐ進むが、道の両側は何の変哲もない、少しすたれた感じのする店や家屋が並んでいる。営業しているのか、たまたま今日が休みなのか、廃業しているのかの判断がつきかねるような店が何軒かある。こういう通りが一番おもしろいのだ。

 

 左手の坂を降りれば温泉街らしいが、まっすぐ進むと文学碑のある磯部公園がある。公園の正面奥には磯部温泉会館があり、13人の文人の文学碑はその奥にあるらしい。若山牧水、久保田万太郎、北原白秋、水原秋桜子、萩原朔太郎、室生犀星など聞いたことのある文人の文学碑があるようだ。名前を記さなかった残りの7人について、名前を聞いたことがなかった。公園内には道祖神もあった。

 

 左の坂を降りないで、そこから分かれる道を登っていく。坂の上のほうにも旅館がある。坂を降りると足湯があった。その近くを碓氷川が流れているが、その周辺には大きく立派な旅館がある。町をぶらぶらしている人は多くはないが、足湯のところだけは10人ほどの人がいた。ホテルのような大きな旅館、こじんまりとしているが新しくちょっとおしゃれな感じのする旅館、営業をやめているかどうかわからない古い旅館が混在しているのが、磯部温泉だ。全体としてレトロ感はあるのだが、そうでない部分も見せてくれる。

 

 足湯の近くに地図があった。マニラ90という名前のスナックがあったので行ってみたが、蓮という名前に変わっていた。ところで温泉マークはここ磯部温泉が発祥の地らしい。

 

 14:03の高崎行きに乗り、隣の安中駅で降りる。駅の南には、東邦亜鉛精錬所が異様な姿を晒している。

 

Cimg4735  2004年に横川に来たときに、この安中駅でも降りている。その日は雨が降っていた。夕方、雨のなかを安中の中心に向けて歩いた。そのときは周辺地図しか持っておらず、それは道路の判別ができるものではなかった。20分ほど歩いたが、誰にも会わない。広い道路をどこまでも歩き、ようやく会った人に市役所の場所を尋ねたときに、まだ先のほうだと言われた。そこで安中の町に入るのを諦め、すごすごと駅まで引き返した。靴は水浸しになっていた。安中はそれ以来、来ていない。

 

 今日、歩いてみて、2004年になぜ間違えたかがわかった。駅から少し歩くと碓氷川を渡る。その先にある下ノ尻という信号のある三叉路で左の道路に入っていけば、なんとなく街道らしい雰囲気になってくる。それが旧中山道だ。そこを歩けばよかったのだが、そのときは右側の広い道路をまっすぐに歩いていったのだ。それはバイパスだった。その道路でもたしかに市役所の前には着くのだが、とても安中宿という雰囲気の場所ではない。下ノ尻の信号からさらに歩けば伝馬町の三叉路に着く。伝馬町という名前を知れば、夕刻時でも、そこが旧街道だという推測ができたかもしれない。

 

Cimg4760_2  安中宿は中山道69次の江戸から15番目の宿だ。中山道にはすばらしい宿が残っている。とくに洗馬宿から本山宿、贄川宿、奈良井宿、藪原宿、福島宿、上松宿、野尻宿(ここは行っていない)、三留野宿、妻籠宿、馬籠宿あたりまでは多くの宿が山あいにあり、ひっそりと息をしている感じがする。

 

 ヨーロッパは広場の文化だ。彼らはそこで議論をすることによって相手を打ち負かし、文明を高めてきたのだとなんとなく思っている。日本は街道の文化だ。通りすがりの人とあいさつを交わし、情報交換をし、自分の行き先を見つめてきたのだろう。

 

 安中宿は、史跡めぐりができるほどに史跡が残っている。旧碓氷郡役所、武家屋敷、有田屋・便覧舎址(日本初の民間図書館)を見ることができる。なかには入れなかったが、安中教会の外観もすばらしい。しかし今の安中ははっきりいうとNHKの大河ドラマ「八重の桜」を千載一遇のチャンスとばかり町の売り出しにかかっている。

 

Cimg4747  安中には新島襄の生家がある。私は「八重の桜」を観ていない。正確にいうと2、3回ほど観たことはあるが、その日の放映を全部ではなく部分的に観ただけだ。新島襄が同志社の創立者であることは知っていたが、八重が新島襄の妻であることを知らなかった。私は全国各地にある偉人の旧宅(や生家)にほとんど興味がない。興味のある人であっても、その旧宅(や生家)に行きたいとは思わない。それなら好きな映画やドラマのロケ地巡りのほうがよっぽどいい。しかしここには来てよかったと思っている。八重の人となりについて、資料から少し学ぶことができた。

 

 私にとっては珍しく歴史に触れた旅になった。その交換条件は足の痛みだ。安中だけで7、8キロぐらいは歩いた。安中駅と町中が遠く、バスが走っていない。平日はあるらしいが、本数は極端に少なく、今日は日曜日である。

 

 帰りは、新島襄旧宅からは早足で40分ほど歩き続け、なんとか16:50発の高崎行きに乗ることができた。

 

 高崎では17:12の平塚行きに乗った。横川に来るときから車内で旅日記を書き続けていたが、帰りの車内でパソコンの電源がついに切れた。そのとき平塚行きは桶川辺りを走っていたが、どの辺りかを確認するのに時間がかかった。車窓は夜になっていた。

2014年1月 5日 (日)

横浜駅10番線から栃木路へ

2014年1月4日  宇都宮 烏山 宝積寺

 

 2010年に拡張された横浜駅9番線、10番線はちょっと不思議なホームである。多くの人がなんとなく利用しているが、その存在が不思議だと意識しているのかどうかは疑問だ。

 

 都心のターミナル駅のホームは方向別になっている。9番線、10番線も横浜より南方面と東京方面への方向別だが、最終目的地が散っているのだ。都市の真ん中にある駅に、これだけの多方面な行き先が存在するホームはないはずだ。上りホームの10番線には千葉、成田方面行きの総武線と成田線、小金井、宇都宮方面行きの東北線、籠原、高崎方面行きの高崎線の3方向の列車が揃う。下りホームの9番線は平塚、小田原方面行きの東海道線、逗子、横須賀方面行きの横須賀線だ。つまり常磐線、中央線を除くすべての方向に1つのホームから乗り入れていくことができるのだ。東京駅、上野駅、新宿駅ではありえない。

 

 2014年1月4日、横浜駅10番線に最初に来た電車に乗ると決めた。しかし、最初に来たのが成田行きだったので、パスする。成田に行くのはなんとなく嫌だ。次に入線してきた7:34発の宇都宮行きに乗る。

 

 あまり寝ていないので、寝ていたいのだが、なかなか眠れない。湘南新宿ラインは大宮までは都市部を走るので、街の感じを見るという楽しみはあるのだが、次の土呂駅辺りから風景がつまらなくなる。東大宮駅、蓮田駅、白岡駅と続く。蓮田駅で下り北斗星とすれ違った。白岡駅辺りからは畑が多くなる。

 

 4分ほど停車した久喜駅の周辺には古い町並みというほどではないが、重厚感がある家屋がいくつか残っている。ここは2009年5月に見に来た。

 

 栗橋駅は東武線との乗り換え駅なのだが、駅の周辺は何もなく殺風景だ。15分ほど利根川のほうに歩いていくと、途中商店街とも言えない店並を通過したところにわずかに古い家並みがある。こちらのほうは2009年10月に来てみたが、はっきりいうと失敗だった。つまり予想は裏切られたということだ。

 

 栗橋は無理に見つけた町並み情報だったが、古河の古い町並みは市が観光情報として扱っている。こちらは2006年2月に来ているが、それほどまとまった町並みではない。ただ古い家屋はぽつぽつと散ってあるのでまあまあの充実感はあった。しかしまあ、どこもかしこも古い町並みで売り出そうとするものだと思ったものだ。

 

 遠くには雪山が見える。赤城山や男体山なのだろうが、どれがその山なのかはわからない。薄い雲がまんべんなくかかり空全体は白青色だが、雪山の上の雲だけはくっきりとしている。

 

 2008年3月には小金井駅で降りた。駅周辺を探し回ったが、あると思われた古い町並みを探すことはできなかった。私がこの町で確認したのは古い家屋3軒だけで、完全な失敗に終わっている。そのとき、この駅で人身事故があり、列車は予定通り出発しなかったのを覚えている。

 

 関東平野の旅はおもしろいものではない。都心の風景を抜けると、電車は住宅街に入っていくが、畑が中途半端に点在する。目が和む田舎の風景ではない。それは宇都宮まで続く。大宮から高崎までも似たようなものであるが、高崎線の町のほうがやや重量感はある。

 

Cimg4405  宇都宮駅に着いたのは10:00ちょうどだった。電車に乗っているときに烏山に行こうと決めていたが、待ち時間があるので、改札を出て駅周辺を歩いてみる。宇都宮は仕事で30回ほど来たことがあるので街中はよく知っている。旅で来たのは2008年3月以来だ。そのときは前述の小金井や、宇都宮郊外にある西根という集落、大谷石の採掘場を見にいった。西根の集落は大谷石で建てられた家々がほとんどで、周囲との独立感は高い。まるでヨーロッパの田舎にいるようだった。宇都宮市内には、大谷石でできた建物が多く散らばっている。

 

 宇都宮駅前は駅前らしくなっていた。建物の数もわずかに増えた感じがする。なにより店の数が多くなった。地方の中核都市として確実に伸びている感じだ。本当にそうかどうかは市内まで出てみないとわからないが、烏山線の待ち時間は40分ほどしかない。駅西側の小さい飲Cimg4398 み屋街と街の中心に向かう広い通りに餃子の店がいくつかあった。駅ビル内にも何店舗かあるようで、街自体が餃子でアピールしようとしているのが見て取れる。6年前は、駅前に2、3軒ほどしかなかったはずだ。駅ビル内に市場があるという表示があったので行ってみるが、普通のスーパーだった。

 

 駅構内に、フリーペーパーのべこぱすが置いてあった。べこぱすは会津若松の情報誌のはずだが、宇都宮にも進出したということか。多くの広告が掲載されており、成功しているようだ。

 

 10:41、烏山線の2両編成の気動車が発車した。国鉄がJR東日本になってから、非電化区間の気動車は小海線、水郡線、八高線を中心に新しいタイプが導入されていったが、旧国鉄っぽい車両が残っている線もある。五能線、只見線、そしてこの烏山線などだ。このタイプの車両はスピードが遅く、発車や加速時に重低音で車体を震わせる。動きがにぶそうな感じなのだ。だからローカル線を旅している感覚にはなる。もっとも車内は、愛想のないロングシートだ。

 

Cimg4486_3  烏山線の気動車はしばらく東北線を走る。沿線にはやはり大谷石でできた家がちらほらとある。宝積寺駅からは非電化区間の烏山線に入っていく。

 

 烏山は1980年代の後半に来ている。そのときは夕方に駅周辺をうろついただけだが、2008年3月には町中を歩いた。このときは壬生、葛生、佐野、田沼、館林など栃木県内の古い町並み(館林は埼玉県)を周るのが目的だった。烏山にはまったく期待していなかったが、印象は悪くなかった。平凡で自己主張はないが、町の中央にごく自然に古い町並みが残っていた。今日、来てみようと思ったのは、そのときの印象がよかったからだ。烏山は烏山町だとばかり思っていたが、市町村合併で2度目の訪問時にすでに那須烏山市が誕生していたらしい、と今日知った。

 

 烏山駅は古く繊細な駅だった。しかしそれは建て替えの最中だった。旧駅舎はすっかり取り壊され、その場所は白い布で覆われていた。こういうことをしてほしくない。丁寧に利用されてきたことがわかる、本当にいい駅舎だったのだ。駅舎のあったところから少しずれた場所にプレハブの簡易駅舎が設けられていた。駅前の烏山観光タクシーの看板はあいかわらずレトロだった。

 

Cimg4449  駅前から真っ直ぐ伸びる通りを歩き、突き当たりを北に向かう。だんだん町の中心に入っていく。商店街を形成しているが、商店は密集しているわけではない。道路は片側1車線で車がある程度通るので、逆に開放的な感じではある。新しい商店はないようだが、廃業した商店はあるのだろう。ところどころに古い家屋があったはずだが、減ったようにも思える。少し歩くと、右手の奥に山あげ会館があった。白壁の武家屋敷風の堂々とした会館だ。館内には山あげ祭りに使われるみこしがあり、大画面で山あげ祭の映像を見ることができるらしい。前回来たときに、ここはなかったはずだ。地方によくある観光用の箱モノである。観光客はここに寄っていくのだろうが、規模が大きすぎ、あまり感心しない。

 

 烏山は和紙で有名なところで烏山和紙会館もある。中央交差店周辺は少し変わっていた。県道10号宇都宮那須烏山線は道路幅を広げていた。中央交差店付近の建物は減っていた。減ったなかには古い家屋があったはずだ。全体として、町から古い家屋が減った感じはある。中央交差店を越え、先まで歩いてみる。ばらばらに3軒くらい古い家屋は残っていた。前回はこの辺までだったが、今日はもう少し歩いてみる。

 

Cimg4456  那珂川に沿った通りに蛇姫通りの表示があった。ついさっき蛇姫という廃業したらしい店に残った看板の写真を撮ったばかりだ。帰る電車のなかで調べてみると、おもしろい伝説が出てきた。

 

 烏山藩の家老が焼き物を売って私服を肥やしていたが、殿が病気でそれを止めさせることができなかった。嫁いでいた姫がそれを知って帰ってきたが、家老が毒入りの食事で姫を暗殺しようとした。姫に使えていたおすがが姫を助けたが、結局、家老に殺されてしまう。その後、姫があぶないときは黒い蛇が現れ、姫を助けたらしい。黒い蛇はおすがの生まれ変わりで、それ以降、姫は蛇姫と呼ばれるようになったということだ。

 

 烏山駅にもどり、13:59の宇都宮行きに乗る。1つ目が滝駅である。ここには幅50メートル、高さ20メートルの龍門の滝がある。滝は2段に分かれていて、2段目は滝滑りができるらしい。昨日までは、夜にこの滝のライトアップがされていたらしい。龍門の滝には昔、大蛇がすんでいたという伝説があるらしい。ここにも蛇が出てきている。滝駅で降りようかどうか迷ったが、止めた。この時間帯の烏山線は1時間30分に1本の列車しかない。

 

Cimg4492  そこから少し乗って、14:41に宝積寺駅で降りる。以前から降りてみたいとは思っていた。駅を出たところのちょっ蔵広場にはモダンな建物があった。そのなかに観光案内所があったので、地図をもらう。この町はけっこう見所があるみたいだ。地図にあるところをピックアップしてみる。元気あっぷる村、桧山リンゴ園、大盛り果樹園、観光ブドウ園と果物はなんでも揃う。ちょっと驚きである。酪農とちぎ農業共同組合ふれあい牧場には牛舎や牧場もあるし、御料牧場もある。宇津救命丸工場・薬師堂・資料館には行ってみたいと思ったが、見学するためには予約がいるそうだ。歴史民俗資料館はもちろんある。そして阿弥陀如来像のある徳明寺や十一面観音菩薩のある大安寺もあるが、いったい宝積寺はどこにあるのだ。地図を端から端まで見たが、駅名になっている宝積寺を発見できなかった。

 

 ここの町の名は高根沢町である。1時間半ほどうろついたが、見所は町のあちこちに散っていて、前述した見所は1つも見ることができなかった。別に町歩きにとっては悪いことではないけれど。

 

Cimg4505  16:18の列車に乗り、宇都宮にもどる。一度入ったことのある、駅前のもちっと餃子は満席だった。近くの元祖宇味家に入って、焼き餃子を食べる。店を出たときはすでに夕暮れだった。街中まで歩いて、また駅にもどってくるのは面倒だ。17:57発の逗子行きに乗った。

2013年12月30日 (月)

冬枯れの弱い日差しの横浜を歩く。

2012年12月22日  横浜(寿町 真金町 横浜橋商店街 黄金町 日ノ出町)

 

 横浜人形の家のあかいくつ劇場で「星のKIOKU」を観た。若い友人が出演した。困難な道をくぐり抜けることができれば、新しい女優が誕生するかもしれない。

 

 会場を出たときは12:00過ぎだった。この時間帯に山下公園のそばにいることはそうあることではない。このまま自宅にもどるのはもったいないので横浜をうろつくことにする。

 

Cimg4283  横浜中華街を抜けていく。人がどっと繰り出していた。年末の中華街は寒さに負けない人たちで溢れていた。しかし中華街の案内を私のブログでする必要はないだろう。

 

 関内のマグドナルドで休む。休日のマグドナルドは人が多すぎて好きではない。そのなかで、鶴ヶ峰店、天王町駅前店、三河島駅前店は何度か行ったことがあり気に入っていたが、閉店になってしまった。これらの店によく行っていた理由は、客が少なく店内がうるさくなかったからだ。それは同時に店がつぶれた理由でもある。私にはマグドナルドのスクラップ店を見つける能力がある。関内南口店は頑張って持ちこたえてほしい。

 

Cimg4289  寿町に向かう。脇道に銀杏の葉が舞っている。どこから吹き流れてきたのだろうと辺りを見回したが、どうやら扇町2丁目交差点の通りの銀杏並木からだった。ファミリーマートの横を入っていくと寿町だ。ひさびさではある。

 

 確実に以前よりおもしろくなくなっているが、NPO法人さなぎたちが経営するさなぎ食堂は健在だった。このNPO法人は夜に周辺をパトロールしたり、衣服などを集め地域の人たちに配っている。このNPOが出している「さなぎたち」を読めば、寿町の今がわかる。学生ボランテイアもここにやってくる。

 

Cimg4297  すぐ近くにある横浜ホステルビレッジは多くの外国人が泊まりにくる。女子高校生なども研修で泊まっていく。寿町に100以上ある宿泊施設のほとんどがいわゆるドヤが発展した形態であるのに対し、横浜ホステルビレッジだけは明らかにバックパッカー系である。山谷のカンガルーホテルや東京バックパッカーズホテルと同じカテゴリーに入れていいだろう。

 

Cimg4296_2  寿労働センターの横を通り、奥にある飲み屋街を歩く。昔、怖い感じがした寿町もすっかり牙を抜かれた。意味もなく道路で酒を飲んだりしている人もいるが、危険な感じはない。冬枯れの午後の日差しのように弱くなってしまった。寿町に入ってからここまでにあった自動販売機の飲料はすべて100円だったが、途中で50円の飲料を見つけた。

 

 不老町の横浜総合高校の横を抜ける。ポーラのクリニックも健在だ。ある医師が寿町に住む労働者のために開業したクリニックだ。

 

Cimg4320  大通り公園を南西のほうに10分ほど歩く。この公園の下を市営地下鉄が走っている。真金町が見えてくると横浜橋商店街だ。横浜橋商店街に入らずに、その手前の通りに入る。この辺りは永真遊郭のあった場所である。

 

 横浜に最初にできたのは港崎(みよさき)遊郭だ。今は横浜公園になっているといっても多くの人はわからない。横浜公園は横浜スタジアムのある場所だ。港崎遊郭は吉田新田(現在の伊勢佐木町2丁目)、高島町遊郭(現在の高島町7丁目)と移転を繰り返した。いずれも火事が原因である。そして真金町で永真遊郭となり1958年の赤線廃止まで続いた。

 

 真金町は現在もごくかすかに怪しげな感じがしないわけではない。その匂いを嗅ごうと思えば嗅げないことはない。しかし有り体にいって普通の町である。10年ほど前にタイ料理店が2、3店できてからバンコクっぽい雰囲気を醸し出していた。何人かの人にここはバンコクっぽいと話した記憶があるが、今はもうそういう感じはない。

 

Cimg4329  この通りにある金刀比羅大鷲神社は横浜開港時に讃岐国の金刀比羅大権現(こんぴらさん)を勧請した神社である。神社は遊郭とともに引越しを繰り返し真金町にやってきた。つまり横浜の遊郭とともにあった神社である。

 

 金刀比羅大鷲神社の近所に寿東部連合町内会館という表札のある建物を見つけた。この辺りは寿町の西側になるのに、どうしてこういう名前になっているのだろう。

 

Cimg4330  町内会の看板などに旧地名が残っていることがある。2009年、横須賀の皆ヶ作カフェ街を訪ねたとき、皆ヶ作町内会の掲示板を見つけたことがあった。皆ヶ作の地名はすでになく、田浦となっていたにもかかわらず、である。横須賀の柏木田遊郭跡を訪ねたときも、旧福助ホテルの近くに柏木田町内会の建物があった。同じように柏木田の地名はすでになく、そこの地名は上町である。

 

 さらに進むが、直進できない。鍵型になっている。ときどき遊郭跡にはこういう場所がある。直進できないところを右に曲がれば、横浜橋市場だ。そこは横浜橋商店街の路地の1つにあたる。そこを抜ければ、横浜橋商店街の出口近くである。南側の出口から出て、よこはまばし入口の交差点を渡る。

 

Cimg4343  そこから小さな三吉橋通り商店街が始まる。この商店街はレトロであるといっていいだろう。鮮魚店、米店、果実店、居酒屋釜山など十数軒の店があるだけだ。三吉演芸場があり、劇団花車などが公演を行っている。その先は八幡町通り商栄会という名称が電柱の掲示にあるが、半ば解散しているといっていいだろう。開いている店は3分の1ぐらいではないだろうか。残っている店の品揃えは十分ではなく、とくにパン屋はレトロだ。

 

 その先は住宅街になっている。以前その先まで歩き、丘の上のほうまで行ったが何もなかったので、今日はこの辺りで引き返す。横浜橋商店Cimg4371 街にもどる。この商店街の特長は惣菜屋が多いということだろう。端から端まで歩けば、10店近くの店が惣菜を出している。おいしい惣菜を求めてスーパーに行くよりはここに来たほうがいいかもしれない。飲食系のチェーン店がないことを今回気づいた。すき家も吉野家も松屋もCoCo壱番屋もない。もちろんファミリーレストランもない。不二家もなかった気がする。よそ者が知らない店ばかりということだ。

 

 横浜橋商店街を抜けて、鎌倉街道(国道16号)を渡り、関内駅から続く伊勢佐木町の商店街を通る。大岡川を渡れば、黄金町だ。10年ぐらい前までは、歩くだけで黄金町交番の警官に声をかけられたものだが、今はもうそういうことはない。京浜急行線の高架下は数年前に様変わりしている。

 

Cimg4387  それは劇的な変貌である。いわゆる置屋街のあった高架下は、小さく区切られた、小奇麗な、おしゃれな、透明感のある店々に変わっていった。変貌は明らかに行政主導だ。そのせいか、新しいくせにまったく活気が感じられない。もうかっていないのではないか。再開発は果たしたが、活気がもどったとはいえないだろう。

 

 以前、この周辺の環境浄化推進協議会の作った小冊子を読んだことがあった。伊勢佐木町や日ノ出町や丘陵部(野毛山公園辺り)が区分けされ、防犯上のあぶないところが徹底的にあぶり出されていた。人通りが少ない、見通しが悪い、管理が行き届いていない、高いブロック塀があるなどが念入りに調査されていた。それらは子供たちが調査したものらしかった。町内パトロールの巡回なども書かれていたように思う。そのとき私はその小冊子をかなり読み込んだが、町内会館の数の多さには驚いた。小冊子から感じたのは、新しい町を作るという住民の強い意識だった。地図には拠点施設が網羅され、道路幅なども分類されていたように思う。

 

 柳美里の書いた「黄金町」は完膚なきまでに否定されていた。

 

 黄金町駅から京浜急行に乗ってもよかったが、日ノ出町まで歩いてみる。

 

 日ノ出町交差点には浜劇というストリップ劇場がある。坂を上がったところには野毛山動物園と横浜市中央図書館がある。図書館の1階はごった返しているが、4階の社会科学や自然科学の図書のあるところまで人は上がってこないので、かなり空いている。そこにある広めの読書机は独立しているので早朝に入館し席を確保すれば、静かに本を読める。昼頃には荷物を置いたまま日ノ出町交差点まで降りていき、インド料理屋でカレーを食べて、もどってくる。膨大な書架から読みたい本を探すのは手間がかかるが、書籍名をメモに書いて渡せば、まるでコンシエルジュのように10冊でも20冊でも読みたい本を持ってきてくれる。このサービスは中央図書館だけで、自宅近くの旭図書館ではやってくれない。だからときどきは中央図書館に来ていた時期もあったが、遠い昔になってしまった。日ノ出町駅から京浜急行の電車に乗って横浜駅に出た。

2013年12月18日 (水)

帰るだけの日。

14日目 2013年12月16日  那覇

 

 3日前にANAのサイトで確認をすると、ANA128便は13:40発だった。10月後半にマイレージで予約していた。こんな中途半端な時間のフライトを予約するなんて、いかに適当にやっていたのかがわかる。残り4日を過ぎていたので、インターネット上でその日の時間をずらすことはできなかった。何時に帰ってもいいので、そのことを特に気にしているわけではない。

 

Cimg4242_2 10:00前にチェックアウトをし、国際通りを歩く。中央市場通りに入り、牧志公設市場を覗く。まだ人は繰り出してはいなかった。桜坂通りから希望ヶ丘公園に入る。ここには猫が数匹いるはずだが、今日は見かけない。桜坂通りの奥のほうには、古い住宅街のなかにスナックがある。その辺りを歩き、壺屋やむちん通りのほうに入っていくが、抜けるのを止める。中央市場通りにもどり土産を買う。紅いもタルトを買うときは、お菓子のポルシェのにしてくれという注文をもらっている。世の中にはうるさいやつがいる。 

 

 スターバックスでコーヒーを飲む。美栄橋駅からゆいレールで那覇空港駅に向かう。

 

 昨日(日曜日)の昼過ぎ、那覇空港行きのゆいレールには大きな荷物を持った人たちが多く乗っていた。帰る人たちだ。雨が降っていたことも重なり、夕暮れの国際通りの人は多くはなかった。そういうこともあり、今日の那覇空港は空いているだろうと思ったら、ANAチェックインカウンターの前は人であふれていた。

 

 しかしANA128便は空いていた。客席は4分の1ぐらいしか埋まっていなかった。機内で飲み物が配られたことがちょっと新鮮だった。機内で飲み物が配られたのはいつだろうと記憶を辿ってみると、2月の那覇行きのJAL便だった。その前はいつだったのだろうと考えるが、思い出せない。あきらめる。人はこうやって記憶を失っていくのだろう。

 

 15:50頃、羽田空港着をもって、旅を終える。

2013年12月17日 (火)

長い午後のゆいレール。住宅街の駅で途中下車。

13日目 2013年12月15日  那覇

  

 12月10日以降、那覇のどこに行くのかがこの旅のちょっとしたテーマになっている。狭い部屋にいるのは嫌だ。だから外出するのだが、外に出た以上、どこかに行かなければならない。外に出て困るのはどこにも行けないこと。目的なく歩き続けること。それは疲労を溜めるだけだ。

 

 交錯する2つか3つの意識は軟着陸点を見つけた。10:30頃、ホテルを出る。この微妙な時間の選択は適切であるように思う。朝ではあるが昼に近い。まずは食事だろう。遅く起きてしまったからブランチになったわけではないことを誰にでもなく断っておく。朝である時間帯での昼ご飯は、1日を短くするが、午後を長くする。同じ時間にたいしての新しい認識は心を新しいものにする可能性がある。

 

Cimg4111  ゆいレールの車内では、次の駅名をアナウンスする前に音楽が流れる。音楽は駅によって異なるというのを数日前に教えてもらった。教えてくれたのはゆいレール初の(元)女性運転手だ。今、旦那とバリ島にいる。

 

 ゆいレールに乗ってみることにする。今まで何回も乗ったが、乗る駅はほとんど決まっている。今日は乗降したことのない駅を中心に乗り降りしてみる。長い午後の過ごし方として適切であるように思う。ゆいレール途中下車の旅を支援してくれるのは、600円の1日乗車券だ。強力な戦力である。

 

 旭橋駅から那覇空港行きに乗り、壺川駅で降りてみる。曇り空は風景の全体を薄灰色にする。国場川は灰青色だ。対岸には奥武山陸上競技場やセルラースタジアム那覇がある。原色は目に飛び込んでこない。ファミリーマートの黄緑色が鮮やかに網膜に残る。那覇には一気にファミリーマートが増えた。駅前を少し歩いたが、おもしろそうなところはないようだ。

 

Cimg4144  奥武山公園駅で降りる。この駅に初めて降りたのは2011年だ。この周辺はペリーが上陸した地点で、ペリーの名前が付いた店がある。2011年、私はそういう店を探していた。駅周辺に、ペリーもち屋、ペリー内科小児科医院、ペリー歯科クリニックの3軒を見つけることができた。ペリーの名前が付いたのはこの3軒しかないと思い込んで引き上げたのだが、帰ってからヤフーマップでペリー幼稚園をいとも簡単に発見した。次に那覇に行ったからといって、ペリー幼稚園を見に行く気にはならなかった。

 

 セルラースタジアム那覇に行くにはこの駅が1番近い。高い位置にあるホームから見た黄色いビルと黄緑色のビル周辺を歩いてみる。そちらのほうは住宅が密集している。この奥はおもしろくなかったわけではないが、普通の住宅街の範疇に入る。サンタの人形が煙突のないマンションを登っていたり、三菱ルームエアコン霧ヶ峰の看板が色あせていたり、宇鏡水自治会掲示板に貼ってあった交通安全ポスターのアニメがレトロだったり。だから何なのだ、という誰かの声を聞く前に次に行く。

 

Cimg4146  3番目は小禄駅だ。駅を降りたところに大きなショッピングモールがある。とても賑わっていた。なかにはスターバックスやロッテリアやミスタードーナツなどが入っていた。ミスタードーナツで休憩するが、落ち着かなかった。ゆいレールのスピードは遅い。コンクリートの線路をゴムタイヤで進むからだ。遠くからやってくるかわいい車両を見てから、駅の階段を上がっても乗車に間に合う。

 

 4番目が赤嶺駅。那覇空港駅の1つ手前の駅だ。数年前にレンタカーを借りたとき、この駅まで送ってもらった。そのときはここから那覇のホテルに向かった。駅周辺にはマグドナルドといくつかの店がある。空Cimg4162 港側の緑地には海上自衛隊那覇航空基地と航空自衛隊那覇基地とがある。こういうふうに2つ並べられると、日本の航空兵力は航空自衛隊だけでなく、海上自衛隊にもあることを改めて知らされる。ブログを書く際に陸上自衛隊も検索してみたが、1番目に陸上自衛隊木更津飛行場が上がってきた。そういうものらしい。その緑地の辺りから大勢の人が歩いてくる。イベントがあったようだ。エアフェスタ2013が開催されたらしい。航空ショーがあったということだ。こういう情報があれば、行ってもよかったかもしれない。

 

 ゆいレールのホームには大勢の人がいた。航空ショーを見てきた人たちのようだ。あとからホームに上がってくる人もいた。こんなに人がいて乗れるのかなと心配そうに話していた家族がいた。ゆいレールは2両編成だよね、前は3両あったのにね、そんな会話もされていた。多くの人であふれるホームに立ったとき、乗れるかどうかの心配を何人もの人が口にしている。それはホームにいる人の多くが心配しているということだ。

 

 ホームにいた人は全員乗車できた。沖縄の人は本当に乗れないことの心配をしていたのだ。ホームのラッシュというものに慣れていないらしい。気になったので、パソコンのなかの過去の写真をチェックしてみたが、ゆいレールの3両編成はなかった。インターネットで調べてみると、ホームは3両編成に対応できるようになっているらしいが、どうやら3両にしたことはないようだ。

 

 こういうときのゆいレールの運転手は大変だ。次の駅の案内アナウンスは自動音声で流されるのだが、運転手はしょっちゅう肉声のアナウンスを入れている「扉の近くに立ち止まらないでください」「奥のほうにお詰めください」「まだまだ奥に入れます」。定時出発のため、乗客の降り乗りをスピーディにしなければならない。駅間距離は短いしスピードは出ないので、遅れたしまった場合、回復は難しいのだろう。

 

Cimg4169  ここから終点の那覇空港方面には向かわないで、反対側の首里駅行きに乗る。観光客が降りる旭橋駅からおもろ町駅の間の駅で降りるつもりはない。古島駅を通過するとゆいレールは首里に向けてどんどん登っていく。下を走る道路もかなりの上り坂になっている。終点の首里駅まで行かず、1つ手前の儀保駅で降りる。大活躍する1日乗車券。MYさんとIさんが昨日、この駅で降り住宅街で迷ったらしい。琉球古来すば御殿山の沖縄そばをおすすめだと言っていた。降りて10分ほどで歩くのを止める。駅周辺には何もない。

 

 那覇空港駅行きに乗り、市立病院前駅で降りる。駅がデパートに直結するのは都市部ではよくあることで、改札口がデパートの入口になってCimg4206_2 いたりする。ここは改札口が病院入口になっている。ゆいレールは地上の上に駅がありその上にホームとレールがある。全体が高くて、乗り降りは少しきつい。どの駅にもエレベーターが設置されているが、乗る場所によっては階段を使用しなくてはならない。病院直行の入口はとても便利だ。この駅のエレベーターには中2階があり、それは道路上で止まる。地上階が1階に当たる。そこは閑散としていた。客待ちをしているタクシーが人を乗せるのに何本のゆいレールを待たなければならないだろう。

 

Cimg4194  隣の古島駅で降りる。儀保駅から市立病院前駅を経由し古島駅までの間の線路が1番おもしろい。この区間でゆいレールはぐんと下るのだ。見晴らしがとてもよい。しかも最後のところでぐっと左折する。疲れてはいないが、駅での乗り降りにはいい加減飽きている。駅を降りても、住宅街ばかりなので、そのなかに分け入っていく気がしない。ここまで私が乗り降りしたゆいレールの駅は7つだ。ゆいレール15の駅のなかで、私が降りた駅はつまらない駅ランキングに入るところばかりだ。

 

 ただゆいレールはとても気持ちがいい。高いところを走る。那覇の建物の最上階あたりを通るようになるので、車窓の展望がいいのだ。東京の日暮里舎人ライナーはこれに近い。

 

 おもろ町駅を通過し、最後に安里駅で降りる。郊外から都心に帰ってきた感じがする。ここは国際通りの東の端だ。ホテルが多くある場所だ。しかし今の那覇はどこでもホテルだらけだ。国際通りを遠くまで見通せるのが、ここのよいところかも知れない。

 

 国際通りにある、昭和38年創業の沖縄そば専門店、街角で沖縄そばを食べる。味については書かない。雨がぽつぽつ降ってきた。スターバックスに入って休憩する。コンセントはおそらく2つしかないが、その席には座れなかった。19:30頃、店を出る。

2013年12月16日 (月)

死にかかっている吉原。生きている栄町。

12日目 2013年12月14日  コザ  那覇

 

 9:00過ぎ、国道330号をひたすら歩いて、コザ十字路をめざす。このルートは下り坂になっているが、途中国道脇の道路に入ったりしたので、30分ほどかかってコザ十字路に着いた。

 

Cimg3995  先に吉原に行く。吉原の名前は、もちろん東京の吉原からきている。つまり色町だ。置屋街である。真栄原と並ぶ沖縄最強のディープゾーンだ。真栄原は平坦な場所に比較的整然と店が並んでいる。韓国の置屋街も多くはそうだ。吉原は坂の両側と上のほうに展開する。その分、吉原のほうが探索気分は高まる。坂の上に向かって歩いていくのがどきどきする。

 

 10年ぐらい前は、昼過ぎに行っても坂の上の店から、足を組んだ女が手招きしていた。そういうときはそこまでまっすぐ登っていけない。横の道に入り、姿を消す。面舵いっぱいで魚雷の弾道を避けた駆逐艦の艦長の気分だ。しかし女のソナーは美里1丁目の全域に探信音を放ってCimg3988 いるだろう。女は完ぺきな海図を持っている。どの道をどう曲がれば何秒後にどこに出てくるくらいは熟知している。これは情報戦であり、完全アウェイで最初に探知されると一挙に不利になる。

 

 さらにやっかいなのは、曲がったその先のガラス戸のなかの女とも視線が合うことだ。まさかの時間にやってくる男は2番目の女にとっても不意打ちなのだろう。とまどいは双方にあるが、とまどったあとの体制の立て直しのスピードは負ける。不意の遭遇時における戦力の差は立て直しのスピードの差であり、それは経験値に比例する。出会い頭は可能なかぎり避けたい。しかしところどころで張られている水雷の網を無傷で抜けることは難しい。

 

Cimg4002  つまりだ。この種の探索は相当気を使う。こちらにとっては神経戦でもある。読者にはそれを理解しておいてほしい。

 

 日本の売春防止法は1955年に発令している。沖縄は本土復帰に合わせて、日本の法律が適応されることになったのだが、10年間の猶予が認められた。もちろんその10年はとっくに過ぎている。それが残っているのが、吉原や真栄原なのだ。もちろん沖縄だけではない。大阪をはじめとして全国各地にそういう場所はあった。見学として歩くことさえ、はばかられる場所だ。 

 

 2年前、普天間基地を徒歩で一周したとき、真栄原に寄った。普天間基地を一周するとき、真栄原は避けられない。そこは3回ほど行った場所なのに、真栄原の場所がわからなかった。理由は真栄原社交街という文字があるアーチがなくなっていたからだ。人に尋ねるわけには行かないので、自力で探そうとしたがなかなか見つけられなかった。結果的に見つけることはできたのだが、真栄原の命脈は尽きていた。営業しているのかどうかわからない2、3店舗を除いて、ドアや窓は封鎖され、貸店舗などの表示があった。そこは終わった場所だった。行政が再生のプランを立案し、警察がその気で動けば、こういう場所は一気に瓦解する。横浜の黄金町はその典型であるが、真栄原に差し伸べる再生プランはなかった。

 

Cimg4007  昨日、吉原を見に行ったMさんが言っていた通りだった。多くの建物に貸物件の紙が貼られている。吉原も断末魔を迎えている。BM、少女林、松竹、カフェ家族、スナックシャネル、笑福、バー夜車、N・Y、欄、だあ~りん、ときわ、スナック紅花。これらの看板の一部は健在で、一部はすでに色あせている。営業しているのかどうかは夜でないとわかりにくい。それでも2年前に見た真栄原ほどではない。まだ息はある。坂の下に止まったままのタクシーがあった。帰ろうと坂を降りたとき、停まっていたタクシーとは別のタクシーが2台、私を追い抜いていった。

 

 吉原に行って、銀天街に寄らないことは考えられない。ディープコザは胡屋交差点にではなく、コザ十字路の2ヶ所に展開する。吉原と銀天街だ。

 

Cimg4032  銀天街はごく狭い地域だけが生きている。ちょっとした食堂と惣菜屋である。3年ほど前、バングラデシュのリキシャが置いてある案内所のようなところがオープンした。そこは地元の高齢者のための買い出しなどのサービスを引き受けていた。しかし今回も含め、3回連続、その場所を探すことができていない。たまたま行った時間に閉まっているということもあり得るが、廃業していることも考えられる。やや活発な惣菜屋付近と活性化という言葉を10年以上も前にどこかに捨ててきた銀天街をぐるぐる回る。

 

 那覇歩きはいつものコースを辿るだけだ。コザはそれ以上に行く場所が決まっている。昨日からここまでのコザ滞在で今回新しく行った場所はない。この他に、コザには諸見百閒通りがある。コリンザから10分ほど歩いたところにある、八重島特飲街があった地域には「ニューコザ」の建物の看板跡だけが残っている。そこは今年の2Cimg4049 月に行ってみた。白人街と呼ばれた地域は、昨日歩いたゲート通りにバーが数軒あるだけだ。コザ十字路近くの黒人街もほとんど確認できなくなっている。

 

 コザ十字路から胡屋十字路までの距離は約2キロ。今朝歩いたようにこの区間は歩ける距離なのだが、コザ十字路からの場合、かなりの登り坂になる。何回か坂を登って胡屋十字路に行ったことはあるが、ここ2、3回はバスに乗っている。今日もバスに乗り、胡屋十字路で降りる。

 

 何もすることはないのだが、コザミュージックタウン音市場のスタンドでコーヒーを買い、テーブルでKOZA Wi-FiがWIFIにつなぎながら旅日記を書く。小さなことだが、今年の2月より便利になっている。この方向でいいと思うから継続し、発展させてもらいたい。

 

 映画「涙そうそう」のロケ地は、そのときはまだ建設されていなかったコザミュージックタウン音市場の周辺に散っている。撮影中に妻夫木聡はデイゴホテルに宿泊していた。この映画は沖縄へのオマージュだった。コザだけはない。那覇の農連市場、平和通り商店街、牧志、桜坂、それに伊是名島、北谷、奥武島など沖縄各地のさりげなくうつくしい風景が映し出されていた。沖縄の旅は、自分の古いアルバムをめくる旅でもある。

 

 沖縄市観光協会で180ページぐらいある、沖縄バスルートマップスケジュールという180ページぐらいの小冊子をもらう。沖縄の全バスの時刻表が乗っているかもしれない。発行元は社団法人沖縄県バス協会となっている。

 

 もう1度、一番街を歩き始めるが、10分ほどで止めてしまった。那覇に向かうことにする。14:00頃、胡屋バス停から那覇バスターミナル行きに乗る。コザから那覇までバスの本数は10本以上あるので、待たなくても乗れる。

 

 松尾バス停で降り、昨日チェックアウトしたグレイス那覇に向かう。同じ部屋をあてがわれたが、今回は2,500円×2泊である。1時間半ほど部屋で休む。

 

Cimg4068  17:00過ぎにホテルを出る。県庁前通りからハーバービュー通りを東に進み、那覇高校前を通過。開南せせらぎ通りに入り、11日にも通った開南交差点を通過する。今日は大平通りには入らない。

 

 この大平通りはヤフーマップでは水上店舗第四街区4となっていた。地図上では、ここから水上店舗第三街区、ガーブ川中央商店街、睦橋商店街と続き国際通りに出る。つまり新天地市場本通りは水上店舗第三街区に当たる。おもしろいと思うのは、ヤフーマップの睦橋商店街は、市場中央通りとむつみ橋通りの真ん中にあるということだ。確証は持てないのだが、ガーブ川は2つの通りの間の下を流れていると思われる。

 

Cimg4075  ひめゆり通りに入る。ここには神里原社交街があった。那覇の社交街を特定するのは難しくはないが、簡単なわけでもない。この場所に初めて来たのは2011年だった。理由は、この場所を特定するのに時間がかかったからだ。名前は2009年ぐらいに知っていたが、場所がよくわからなかったということだ。ピンクの建物が目印だ。ここも11日に通過しているのだが、神原中学校横のトックリキワタという木に気を取られて書き忘れてしまった。周辺は家が取り壊されていて、駐車場になり、ほとんど残っていない。かろうじて間に合ったというべきか、もっと早く来るべきだったと思うべきなのかはわからない。ときどき旅は時間との勝負になる。昨日そこにあったものが今日あるとは限らない。旅は早い者勝ちでもある。暗くなり始めたひめゆり通りを歩き続け、安里駅に着いた。

 

Cimg4086  17:45、栄町市場と栄町社交街の中間地点ぐらいにある遊処栄楽に着く。ご主人の石原さんと話をする。泡波の大瓶が置いてあったので尋ねると30,000円らしい。波照間島で、小瓶を2,700円ぐらいで買ったと言ったら、大体そんなものらしい。地元では安く卸していても、石垣島では6,000円だと言う。

 

 Hさん、Iさん、MYさん、Oさん、Sさん(アルファベット順)がやってくる。みんな旅仲間だ。この栄楽は民謡酒場なのだが、三線を触らせてくれる。ここは三線を習い始めたIさんの希望で予約した。Iさんにとってよい思い出になったようだ。Iさんの旦那であるMYさんは十九の春を唄った。SさんとOさんはときどき会うが、Hさんとはひさしぶりで話ができた。

 

Cimg4087  旅のタイプやスタイルが異なるので、話は多岐に渡る。さて何を話したのだろうと振り返ると、あれも話したこれも話したとなる。細部は覚えていない。バリ島でゴルフをしたことをひさしぶりに思い出したが、それは私には珍しく数人で旅したからだ。その件で話をし損ねたことをあとで思い出した。そのときはバリ島の現地チームを相手にサッカーもしていたのだ。しかし詳細についてはあまり話をしたくはない。

 

 帰りに栄町の夜を歩く。見かけたドミトリー宿は建物が古いくせに高かった。いやそんなことはどうでもいい。栄町には3度来たことがあり、11日にも来ている。そのすべては昼だった。私は知らなかった。死んだと勝手に思っていた栄町は生きていた。ややくたびれた昼の風景はどこかに追いやられていた。半開きの戸口の奥から2人の女が通りを見ていた。誘うでもなくただ座っていただけだったが、そこには不思議な吸引力があった。そこを陽気に通り過ぎることができたのは、私ではなく私たちだったからだ。オリオンビールと泡盛も何らかのかたちで関与をしていたはずだが、その金額ならともかく酩酊の明細についてはわからない。ましてここは沖縄なのだ。

2013年12月15日 (日)

やってみるさ~。起業家たちのコザ。

11日目 2013年12月13日  那覇  コザ

  

 7:00過ぎに起床。朝から旅日記を書く。9:20にチェックアウト。外は傘を差している人と差していない人が半々ぐらいだ。傘を差さないで歩き始めるが、途中で雨足が強くなる。慌てて傘を差すが、雨足はさらに強くなった。スコールだ。折りたたみの小さい傘ではほとんど役に立たない。靴のなかに水が染み込んでくる。通りを歩く人はいない。みんな建物の軒先に避難している。避難したのは沖縄かりゆし琉球ホテルなは。ロビーの一角でコーヒーを飲んで一息つく。

 

Cimg3854  11:10頃、ホテルを出る。雨は小降りになっていた。バスターミナル2階のみつ食堂は満席だった。こんなに人気がある店だったのか。昼ご飯はあきらめ、近くのコンビニでおにぎりを買う。

 

 11:30頃、屋慶名行きのバスに乗る。道路はかなり混んでいて、那覇を抜けるのに時間がかかった。途中の道路もそれほどスムーズに進んだわけではない。大謝名から真栄原経由で、いつもより15分ほど余計に時間がかかっている。バス内でおにぎりを食べる。

 

 道路幅が広がり、両側に背の低いビルが林立し始めるとコザだ。前回来たのは10ヶ月ほど前だ。懐かしさはない。また来たなという感じだ。胡屋バス停で降りる。コザミュージックタウン音市場に入って驚いた。いつ来ても閑散としていたが、賑わっている。いや正確に書いておかなければいけないだろう、閑散としているコザミュージックタウン音市場にしては、まあまま賑わっているといったところだ。

 

Cimg3861  13:00頃、赤坂ホテルに向かう。ここは何年も前に泊まったことのあるクラウンホテルのすぐ近くにある。クラウンホテルは、おじいとおばあが経営している素朴なホテルだ。デイゴホテルと並び、気に入っているホテルの1つだが、今回の旅はホテル料金を最安値で乗り切りたい。

 

 赤坂ホテルは悪くない。見栄えはちょっとあやしい感じがしないでもないが、フロント付近はバックパッカー宿の雰囲気を少しだけ醸し出している。部屋は満足できる。1泊3,500円だ。小さい場末のホテルといっても、やはりコザのホテルである。那覇のビジネス系のホテルとは異なり部屋には余裕がある。

 

 ホテルを出て少し歩き、国道330号線を渡る。街歩きスタートである。まず中央パークアベニューをコリンザのほうに向かう。いつものコースを歩いているだけなのだが、コザには驚かされる。新しい店ができているのだ。

 

 そもそもコザは廃れた感じのする街だ。アーケードのある銀天街や一番街はその象徴だが、中央パークアベニューも例外ではない。しかし毎回来るごとに新しい店が出ている。特に今回はそう思った。

 

Cimg3891  コザはスクラップアンドビルドが進む街だ。多くの店が撤退していったが、その都度いくつかの店が出店している。普通、廃れた感じのするコザで新しく商売をするのは難しい、と考える。しかしそう考えないで、いやそう考えた上でなおかつ、やってみようとする人が多いということなのだろう。

 

 コザは起業家精神にあふれる街なのかもしれない。起業をする際に慎重であることは必要だ。リスクがあるのなら、それを回避するためにリスクマネジメントを発揮し、リスクを軽減していく。あるいはビジネス自体をやめてしまうのが起業のセオリーだ。だから実際はそうしているのかもしれない。そうしておいた上でも、結果として撤退していかなければならないことはある。長い目でみれば、そのほうが多いだろう。

 

Cimg3889  慎重な起業は存在する。慎重すぎる起業というのも存在する。そして慎重ではない起業というのも存在する。コザに多いのがどのタイプなのかはわからないし、起業に必要な個人的な意志と用意周到さなどそもそも計りようなどない。おしなべてコザの起業はこうなのだと定義付けをすることにも意味はない。

 

 判断が早いという言い方はできる。やってみた、うまくいかない、すぐにやめる。良い点は、大怪我をしないということだ。傷が浅いので再生までの時間は短い。

 

Cimg3901  懲りない面々であるという言い方ができるかもしれない。この言い方は語弊を含む。1回の失敗であきらめない、ちょっとしたことでへこたれないタイプが次のチャレンジを可能にする。

 

 コザは変わり続けることができるからこそのコザなのだ。だから経済が順調だとは思えないコザで、次々と店が誕生しているという事実に旅人は驚く。

 

 今年の9月にコザ一番街は「THE空き店舗内覧会」を行った。空き店舗を公開し、なかを見てもらい、そこで開業したいという人を募集しようというものだ。起業する人には店舗改装などにかかる費用の半分以下(最高1,000,000円)の補助があるらしい。写真を見た限りでは、内側がきれいな物件もあれば、物が残っているので片付けが必要な物件もあった。

 

Cimg3892  行政のサポートは実施されつつある。この地域は無料のKOZA Wi-Fiが利用できるようになった。30分で接続できなくなるのはちょっとせこい気がしないでもないが、再接続できるので問題はない。この前来たとき試験運転していた中心市街地循環バスは、今年の4月から本格運転していた。一方で車での買い物客を誘致するための駐車場マップはかなり以前から配布されている。起業のサポートはすでに実施段階に入っている。それ以上は行政の出る幕ではない。

 

 一方でNPO系の店や施設が増えている。ゆんたくまちやは映画ポスターが展示してあった。それで観光客の関心を引こうとしているのは、Cimg3880 夕張(北海道)や青梅(東京)と同じ発想だ。ポスターはおそらく50年代のものに特化している。それは何かを考慮してのことかもしれない。店の奥はカフェになっていて、地元の人も立ち寄れるようになっている。琉球職業能力開発学院は、民間の教育サービスのスクールなのかどうか判別がつかなかった。ファミリーサポート・ジョブカフェ(沖縄市ファミリーサポートセンター)というところも新しくできたようだ。

 

 こういう半ば公共的な施設が必要なのかどうかは疑問である。コザミュージックタウン音市場を始め、コザBOX、FMコザ、コザ・インフォメーションセンター、ヒルストリートなど同じような施設がコザにはかなりあるのだ。コザは住民にたいしても旅人にたいしても昔から、それなりに手厚いだろうと思えるサービスをしてきている。

 

 コザのニューヨークレストランは何年も前に廃業している。Aサインバーのある有名店だった。1度食事をしたことがあったが、それっきりになっていた。いつ廃業したのかはわからない。閉じられた店の奥を覗き込んだことが3度あった。誰も使わなくなった暗い店内に椅子などが乱雑に置いてあり、ピンボールのマシンがあった。今回、驚いたのは、ドア横の看板だけがロサンゼルスレストランに変わっていたことだ。悪い冗談かと思った。夜、インターネットで検索すると引っかかってきた。

 

 あるコミュニテイとRBCビジョンが共同で制作した地域コンテンツムービーのタイトルがロサンゼルスレストランだ。東京から来た男が廃業したロサンゼルスレストラン(実在したニューヨークレストランがモデル)を復活させようとする物語で、3分×5話で完結している。「平成23年度中心市街地域活性化事業 商業活性化地域連携モデル事業」からの助成金を制作費の一部にしているらしい。2分の予告編を観た。全編を観ていないので本来、論評はできないし、助成金とやらの出所も知らない。しかしあえてリスクを承知で書いてやる。

 

 まったく行政とは阿呆の集まりだ。ムービーを勝手に作るのは自由だ。それは趣味だ。趣味のテーマがコザの復活に関係するのなら、助成金を出すのか。このムービーが何を呼び起こすのか。これは起業家とは何の関わりもないことだ。こんなものに助成金を出すのなら、ゲート通りのタトゥーの店に、長年そこで営業していることへの感謝状でも送ってやれ。

 

 さっきリスクを承知でと書いたが、まったく取るべきリスクがあるのかね。

 

 行政がどれだけビジネスの周辺を掘り起こしても、再生の核となるのは起業家だ。常に天から金が降ってくる行政に、金の効果的な使い方は身に付かない。起業家は自分のこととして金を使う。その過程で雇用を創出し、商品やサービスを提供し、金を流通させる。行政は当然のこととして税金を徴収する。この「当然のこととして」の意識が、行政が進歩しない理由そのものだ。

 

 起業家の生き方とその実践の過程で練り上げられる思考と手法は周囲のモデルとなるだろう。それこそが周囲を鼓舞するのだ。それができれば、コザの小さな4番バッターたちが、オレンジレンジほど有名である必要はない。

 

Cimg3890  コザのおもしろさはまちがいなく、あとから現れるチャレンジャーの存在だ。そういうコザに期待しているというわけではない。私が期待してもしなくても何の関係もない。ただ、コザの商店街に突然出現している店を見てきた。衰退しているだけの町はすぐにわかる。コザは、衰退のなかでも、それにあがない続け、新しいものを出せる街だ。私はコザのがらんどうのような感じが好きだ。同時に、角を曲がったところに突然出現する奇抜な店はコザのもう1つの魅力であると思っている。

 

Cimg3888  巨大商業施設コリンザは、キーテナントがことごとく撤退した。ビッグワン(デイスカウントストア)が撤退し、ベスト電器が撤退し(電池を買ったことがある)、コールセンターが規模を縮小した。ハローワークや沖縄市民小劇場あしびなーが入っているが、商業施設としては失敗である。

 

 コザミュージックタウン音市場は当初、失敗感が漂っていたように思う。目の前の歩道橋を撤去したのは正解だろうが、なぜこんな役に立ちそうもないものを造ったのだろうというのが最初の感想だ。しかしもしかしたら少しずつ地域に馴染んできているのではないか。

 

 揶揄した書き方をすると、高齢者は1階に置かれた椅子を休憩場所として使っている。ほとんど誰も行かない3階に置かれた数個のテーブルは女子高生の放課後のおしゃべりの場となっている。そこはコザのエアポケットでもある。つまり人はかなり自然発生的に集まりつつあるのだ。

 

Cimg3858  2階のJAはお引き取りいただこう。店舗が空いているからといって、業種にかかわらずテナントを決めるという馬鹿なことは、テナントがある程度集まった今はもう止めたほうがいい。1階のすき屋は店舗スペースを半分か3分の1にしていただこう。全国統一のチェーン店において、コザにだけ合う商品開発はとうてい無理である。つまり、満席になるはずがないすき屋の広大なスペースは無駄だ。おそらく今まで、施設側は広いスペースをまず店舗で埋め、次に人で埋めることだけに専念してきたはずだ。これからはスペースごとの人の密度を高めるための工夫が必要だろう。そこにコザ・オリジナリティを追求しないでどうする。打てる4番候補が周囲にひしめいているというのに、肝心の基幹施設を今のレベルに留めていいはずがない。それはやる気のある、そして懲りない面々に失礼というものだ。ここはまだスタートしたばかりだ。コザの中心として周りを引っ張っていかなければならないのはこれからなのだ。

 

 街の変貌は那覇の国際通りでももちろんあるが、店舗単位での変遷にあまり興味はない。国際通りにあった覆面レスラー中心のプロレス団体はどうなったのだ。ドン・キホーテやジュンク堂の前はどうなっていたのだろう。見てきたはずなのに、まったく覚えていない。おそらくそれらは私にとってどうでもいいことなのだろう。

 

 ただ那覇全体の変貌に興味がないわけではない。最初に行ったときの那覇は汚かった。国際通りは暑いだけだった。国際通りにあった歩道橋の上で、ここはいったいどういう街なのだろうと思ったことを覚えている。むせかえるような雑踏のなかで、どっちに行けばいいのだと迷っていた。

 

 一昨日に見たガーブ川中央商店街組合の「なつかしのまちぐゎー展」は、那覇の変貌をよく表したものだった。それは私の体験したことのない那覇だった。私はそこで古い白黒写真を眺めながら、私のなかのどこか深い部分に向かってそろりそろりとエレベーターを降ろしているような感覚でいた。

 

 中央パークアベニューから1番街やサンシティを通り、ゲート通りに出る。そこから嘉手納基地のほうに歩く。この辺の店は派手だ。途中のゴヤ市場はあいかわらず寂しげな感じだ。古い看板は近くの天ぷら屋の大きな看板に負けている。カフェは2、3軒あるが、店の多くは米兵向けの服や帽子を売っている。ほとんどの店は大きな看板を掲げ、派手な店舗造りをしている。

 

Cimg3910  高速道路の下をくぐり、嘉手納基地の玄関前まで行く。ここまで入るのは自由なはずなのだが、写真を撮っていると、米兵が寄ってきた。日本語で、高速道路の下から基地側は写真撮影が禁止されていると言われた。撮りたければ広報を通してくれということだ。目の前でデジカメの写真を2枚消去したのだが、まだ1枚残っている。それをブログに載せるかどうか考えながら、来た道をもどっていく。右手にクラウンホテルが見える。ここはまだ泊まったことがない。

 

 コザミュージックタウン音市場にもどり、休憩する。店でコーヒーを買い、テーブル席に座って飲む。旅人をゆっくりさせる場所をありがとう。もうすぐクリスマスか。ここを応援してやるか。

 

 そのあと中の町社交街のほうを歩く。ネオンがぽつぽつ点いている。雨が冷たい。夜がコザをつつもうとしている。

 

Cimg3942  17:50前に、コザミュージックタウン音市場にもどり、Mさんと会う。Mさんが2度行ったことがあるというおでん小町に行く。ここは沖縄おでんの専門の店で、メニューはおでんしかない。おでんの定番メニューに加え、てびちなども食べる。出汁はてびちから取るようで、それがここのおでんの味の基本になっているようだ。てびちは忘年会などの注文もきており、その準備が忙しいらしい。

 

Cimg3945  そのあと胡屋十字路近くのRed Kitchen & Cafeに入る。コロナ、ブラジリアンピザ、ポテト。おでんの味が吹き飛ぶメニューだ。注文したものは少ないが、量が多く食べきれなかった。客は、私たちとあとから入ってきた人だけだ。店は流行っていないのか、それとも私たちの来る時間が早すぎるのかわからない。もともとブラジリアン系統の店らしいが、タイ料理などのメニューもあるし、泡盛を飲むこともできる。

 

 Mさんとはコザや沖縄を旅したときの話などをした。韓国、旅全般、ブログの話もした。共感できること、見解が一致することは多い。とこCimg3950 ろどころで感じ方が微妙に異なるところもある。しかし共感できる部分も含めて、もしかしたらそれは大したことではないかもしれない。お互い旅好きで、コザで会うことができるということがとても貴重なことなのだ。

 

 沖縄県営鉄道の話もした。与那原駅が修復することを教えてくれたのはMさんだ。彼が言う「沖縄に山手線の電車が走ったら、どうしますか?」。そんなことは想像していなかった。それだけは駄目だ。あんまりだ。いくら何でもひど過ぎる。きっと私は沖縄山手線を避けて、沖縄を旅するだろう。

2013年12月13日 (金)

南城市。2つのグスクと1つの島。

10日目 2013年12月12日  那覇  南城(奥武島)

 

Cimg3686  沖縄の食堂やカフェは朝が遅い。食堂は仕方がないが、9:00に開いているカフェが少ない。カフェを探しながら歩いていると那覇バスターミナルに着いてしまった。開いている可能性は低いが、2階のみつ食堂に行ってみる。やはり開いていない。ここは知る人ぞ知る食堂だ。

 

 沖縄には4つのバス会社がある。琉球バス交通、沖縄バス、那覇バス、東陽バスだ。沖縄のバス旅は楽しい。なぜ楽しいのかよくわからないが、とにかく楽しい。鉄道がないので、バスターミナルが起点になるのだが、町のどこにあるのかよくわからない。探し当てるのが大変である。鉄道が発達している日本ではバスが鉄道とCimg3688 リンクする。その際、主は鉄道で、バスは従だが、沖縄だけはそうではない。バスを乗りこなすと、ちょっと沖縄通になった気分がする。沖縄に鉄道ができるのはもちろん反対ではないが、那覇から名護やコザに行くバスは全廃になる可能性がある。それは残念なことだ。

 

 バス旅は日本の毛細血管への旅である。どこに連れて行かれるのかわからない。3泊4日で屋久島に行こうとしたとき、鹿児島港でフェリーが3日間欠航になったことがあった。どうすることもできない。鹿児島に1泊し、薩摩半島の旅に切り替えた。廃線になった鹿児島交通の路線に沿ってバス旅をした。最後には枕崎に着いた。このとき以来、バス旅が好きになった。

 

 那覇バスターミナルの最大の欠点は、総合案内がないことだ。場合によっては4つのバス会社を回ることになる。とりあえず最初に目についCimg3687 たバス会社に入って行き先を伝えれば、しっかり案内をしてくれるのだけれど、少しやりにくい。最近、那覇バスが那覇の定期観光バスを運用し始めた。バスターミナルの1階に降りたとき、その案内所が目に付いたので、そこに入ってみる。南城市に行きたいと伝えると、琉球バスで行けると教えてくれた。琉球バス交通の事務所に入る。まず糸数城跡の近くにある南城市役所辺りで降りて、そのあと奥武島に向かいたいと伝える。

 

 51番か53番バスで行けると言われた。両方のバスが南城市役所には行くが、どちらかのバスは奥武島には行かないらしい。どちらのバスが行かないのかを教えてくれたのに忘れてしまった。先に南城市役所に行くのでどちらに乗ってもよい。9:09発のバスに乗る。バスは国場までは与那原行きと同じルートを通る。沖縄のバスは複雑でコザに行くのに、与那原経由というバスもある。国場までは沖縄県営鉄道与那原線とほぼ似たようなルートを辿る。


 国場までは那覇の郊外路線という感じで、ファミリーレストラン、コンビニ、スーパー、店が並んでいるが、それ以降は住宅を中心とした平凡な郊外の風景になる。

 

Cimg3694  40分くらい乗って、玉城中学校前で降りる。隣に南城市役所があるようだが、市街地ではない。平凡な田舎だ。市役所とは反対方向の坂を登っていく。途中の案内板に、糸数城跡と玉城城跡とが同じ方向で記載されていた。玉城城跡があるとは知らなかった。地図で確認する。少し離れたところに玉城城跡はあった。とりあえず糸数城跡に行って、そのあとどうするかを考える。

 

 玉城小学校の近くにオウルガーデンというカフェがあるようなので行ってみる。朝、何も食べていないのでコーヒーを飲みたい。周辺はカフェなどあろうはずがないという場所なのだが、それはあった。しかし予想した通り、閉まっていた。

 

Cimg3702  坂を登り、山の上のほうをめざす。沖縄の城(グスク)は見晴らしのいい高台にあることが多い。途中、海の見えるところを通る。30分ほど歩いて、糸数城跡に着く。途中に井戸のようなところがあった。そこは御獄っぽかった。

 

 道路から300メートルほど入った山の頂上に糸数城跡はあった。太平洋と東シナ海が見えた。ここは玉城の出城だったらしい。糸数城跡は単純な石を置いただけの城だ。本土の城壁のように石を加工し、石組みの隙間を無くして積み上げるということをしていない。そうしている部分もあるようだが、城壁の強度はあまりなさそうだ。城内で中国の陶磁器の出土があったそうだが、沖縄では当然ありうることだ。1台の車が止まっていたが、誰にも出会わなかった。

 

Cimg3712  糸数城跡に入っていくところに南部観光総合案内所があるので、寄ってみる。なぜこんな山の上の何もないところに観光案内所があるのか疑問だったが、大型バスが4台止まっていた。見学を終えたらしい高校生の集団が帰ってきた。彼らが何を見に行ったのかを案内所の人に尋ねてみると、近くに糸数アブチラガマがあるらしい。アブとは深い縦の洞窟、チラとは崖、ガマとは崖やくぼみのことである。 

 

 沖縄戦では自然の洞窟が避難の場所になった。場合によっては作戦陣地や野戦病院にもなった。そこは最初、糸数地区の避難指定壕だったらしいが、戦場の南下で南風原陸軍病院の分室となった。軍医や看護婦、ひめゆり部隊が配属され600人以上の負傷兵がいたそうだ。南部撤退命令後、負傷兵と住民の雑居状態となった。米軍の攻撃を受けながらも生き残り、最後には投降勧告に応じたらしい。8月22日、終戦から1週間が経っていた。

 

 予約をしないと中に入れないらしい。つまり今日は入れないということだ。

 

 南部観光総合案内センターから30分ほど歩いて、玉城中学校前にもどる。15分ほど待つと、10:26発のバスが5分ほど遅れてきた。3分ほど乗ると海が見えてきた。海の近くまできていたのだ。海は道路Cimg3737 の近くではない。山の中腹の国道331号をバスは走る。途中で奥武島が見えた。玉城バス停で降りる。

 

 沖縄を旅して迷うのは地名の読み方だ。玉城中学校前の玉城は「たましろ」と読む。しかし今降りた玉城バス停の玉城は「たまぐすく」だ。豊見城は「とみしろ」と読む場所と「とみぐすく」と読む場所がある。別に読み方を統一してほしいとは思わない。

 

 バス停の近くに誰もいない。地図で大体の方向を確かめ、玉城城跡のほうに向かおうとすると、山を登るようになる。どんどん登る。住宅はところどころにあるのだが、人はいない。その住宅も途切れがちになってくる。途中、山の上のほうから車が降りてきた。道を尋ねたいといったしぐさをしてみると、止まってくれた。玉城城跡はもっと山の上だという。登っていって右に曲がるとゴルフ場がある。その右側にあるらしい。

 

 言われた通りに登る。登りきったところに鉄塔があり、片側1車線の道路が走っていた。ここはグスクロードと呼ばれる道路で、糸数城跡かCimg3745 ら歩けば、途中には根石グスク、百十踏場の墓などの史跡を見ることができるが、糸数城跡から歩くのは遠すぎる。

 

 グスクロードを東のほうに歩くと、ゴルフ場が見え、道路をはさんだ反対側に玉城城跡はあった。ここも車が1台止まっていたが、誰もいなかった。

 

 玉城城跡も見晴らしのよい城だった。城に入るときに円状の入口をくぐるのだが、それは自然岩をくり抜いたものらしい。糸数城跡よりも少し小さい。アマミキヨが築いたとされるが、築城の年や歴代の城主もよCimg3751 くわかっていないらしい。玉城は3つの郭からなっているが、一の郭しか残っていない。二の郭、三の郭の城壁は米軍の基地の骨材用として持ち去られたらしい。帰り際に南部観光総合案内センターで見た高校生を乗せたバスがやってきた。

 

 さっきの玉城バス停にもどりたいのだが、地図を見ると、ルートはもう1つあった。グスクロードを東に歩いて途中の細い道を降りるルートだ。少し近そうなので、そのルートで歩いてみる。しかしこれは失敗だった。おそらく下に降りるだろうと思われた細い道は封鎖されていた。そのまま歩き続けるが、下に降りる道はない。かなり歩いたところでようやく下に行く道を見つけた。

 

 その道を降りていく。少し降りただけのところで国道331号にぶつかった。本当はもっと下まで降りなければいけないはずだったのだが、国道が上まで登ってきているらしい。そこは百名だった。

 

 百名の町を歩く。バスターミナルはあった。百名行きのバスを見たことはあったので、どんなところなのだろうかとは思っていたが、何の変哲もない町だった。奥武島とは反対の方向に歩いたわけだ。バスターミナルから奥武島に行くバスに乗るとなると1時間以上待たなければならCimg3756 ない。仮にそのバスに乗ったとしても、降りるのは奥武入口のバス停なので、奥武島まではさらに20分ほど歩かなければならない。結局、奥武島まで歩いて行くことにする。

 

 国道331号に沿って延々歩く。20分ほど歩いてさっきバスを降りた玉城のバス停を通過する。玉城城跡からここに降りて来たかったのだ。20分以上かけて登った坂を降りるだけなので10分ほどで着くと思われたが、40分近くかけて着いたことになる。ようやく奥武島が見える。ここからもただひたすら歩くだけである。国道331号はくねくね曲がっているので遠回りになる。奥武島までできる限り直線で行きたいので、途中、一気に下に向けて降りる場所を探す。それらしいところがあったので、そこを降りる。海側まで出ると、あとは海岸に沿って歩くだけだ。奥武島がだんだん近くなってくる。橋を渡って、奥武島に入る。玉城城跡を出てから1時間半かかった。12:50だった。

 

Cimg3801  橋の近くは、なかよし食堂、みなとストアーなどの鮮魚店が並ぶ。奥武島海産物食堂という名前も入口もレトロな店に入る。魚フライの定食を食べる。料理を運んでくれた人はベッキーに似た美人だった。

 

 島を一周する。周遊道路は約2キロの、小さい島だ。見所は竜宮神と電線のない電柱ぐらいだ。竜宮神は島の南東部にある奇岩だ。ハーリー(海神祭)の際には漕ぎ手全員がここで安全祈願をするらしい。ハーリーは爬竜船を漕ぎ競う祭りのことで、安全祈願のために行われる。それは沖縄の各地で行われる。橋の近くにハーリーの際に使う爬竜船を置いてあるところがあった。電Cimg3812 線のない電柱は、台風で壊されたと思われる。一周するのに1時間もかからなかった。橋までもどってきて、島のなかに入るが、おもしろそうなところはあまりない。奥武観音堂には遭難した中国人を助けたお礼として送られた観音像があるらしいが、入れなかった。

 

 橋を渡り20分ほど歩いて、奥武入口に着く。沖縄には海中道路で結ばれた島がある。いわゆる離島ではない島で、奥武島もその1つだ。離島でないので当然行きやすいのだが、この奥武島だけは行ったことがなかった。気にはかかっていたが、特に行きたいわけではなかったので、ずっと放っておいたままだった。しかしこれですべての離島でない島に行ったことになる。

 

 16:04のバスに乗り、那覇に向かう。那覇に入ったとき、まだ日は暮れていなかったので、与儀小学校前で降りる。昨日歩いた与儀市場通りの奥を歩いてみたかった。昨日歩いた通りに入り、その奥のほうまで行ってみるが、おもしろそうな場所ではなかった。

 

Cimg3851  一端、与儀公園にもどり、安里方面に歩き、マグドナルドに入る。ここで旅日記を書く。ここはWIFIは準備されていないが、持ってきたポケットWIFIのWiMAXは使える。コンセントを2つ専有しても特に問題はない。

 

 30分ほど歩き、ホテル近くまでもどる。ゆくい処アンマーで夜ご飯。オリオンビール、ミミガー、ジーマーミ豆腐。19:30頃に、グレイス那覇にもどる。

2013年12月12日 (木)

那覇の街歩き。犬を連れた〔志村けん〕に遭遇。

9日目 2013年12月11日  那覇

  

 起きたのは9:30。ちょっと寝すぎだが、早起きできる感じではなかった。昨夜は遅くまで、沖縄県営鉄道の路線を地図でなぞったりしていた。調べてみても線路跡はごく一部しか残っていないようだ。嘉手納線に沿ったところの大部分はバスとレンタカーで通ったことがあった。与那原線の4割くらいは歩いているし、残りはバスで通過している。田舎を走っていた糸満線がおもしろそうだ。つまりそういうことをしていて寝るのが遅くなった。

 

 沖映通りのバーガーキングまで歩いて、朝ご飯。10:30の時点でコーヒーを飲んでいるということは、今日の遠出は無理そうだ。どこに行こうか迷っている。昨日のテーマは今日のテーマだ。持ち越されただCimg3522 けだった。バーガーキングそばの那覇市観光案内所に行ってみる。なかにあった資料で唯一おもしろそうだと思ったのは、南城市MAPだった。南城市は那覇の南東にある。安座真港から久高島に行ったことがある。久高島が南城市に属していたことを今、知った。あざまサンサンビーチも斎場御嶽も南城市に属していた。それらは海岸線に沿っているが、内陸側には行ったことがない。行こうかどうかの思案をする。時間が惜しいので、那覇市観光案内所を出て、地図を大きく開きながら国際通りを那覇バスターミナルの方向に歩いていく。しかしこんなことをしてもまともな旅はできないと思い、南城市行きをあきらめることにする。明日にしよう。

 

Cimg3541  思考は振り出しにもどる。何をやっているんだ。今日も那覇にいるしかなくなった。久しぶりに栄町に行ってみる。国際通りを牧志まで行き、ゆいレールに沿って歩けば、ひめゆり通りに入りまもなく安里駅だ。安里を牛耳っているのはスーパーりうぼうだ。しかしそれは安里の一等地を占めているというだけで、安里は栄町社交街と栄町市場の2つで語られるべき町だ。

 

 栄町社交街は文字通り社交街のあった場所で、それは今でもある。アーチもある。ここはスナックなどの小さい飲み屋が多い。旅館も少しCimg3535 ある。適度に住宅が混じっているので、スナックや飲み屋が古くなってくるとよけいに場末感が出てくる。昼間にここを通るのは普通の人たちだが、おそらく夜もあまり変わらないだろう。ゆいレールやバスから安里で降りた人たちが奥のほうの自宅にもどるのだろう。もちろん社交街なので、ここまで飲みにくる人もいるのだろうが、それほどあやしい場所だとは思わない。

 

 戦後の闇市の雰囲気は栄町市場に残っている。食堂、八百屋、惣菜屋などの個人商店が軒を連ねる。市場の通りはもちろん広くない。そのほCimg3553 うが、適度な賑やかさを演出することができる。ここには3回来ている。前回が5、6年前であるはずだが、うまく確認できない。そのとき、ここはもう朽ち果てるしかないだろうと感じるほどの寂れ方だったが、かなり持ち直したようだ。

 

 栄町からひめゆり通りを西に歩く。吉野家を過ぎ、マグドナルドを過ぎ、与儀公園まで歩く。こちらのマグドナルドは国際通りのほうと違い、広いし、コンセントは充分あるし、いつも空いている(こういう情報をあまり出したくない)。とても快適なのだ。

 

Cimg3570  与儀公園は桜の名所で毎年2月上旬には桜祭りが行われる。与儀公園のなかをガーブ川が流れる。川はひめゆり通りの反対側にある神原中学校の横を通っている。神原中学の横に咲いているのはまさかの桜はないか。今は12月だ。ひめゆり通りを反対側に渡り、桜と思える木のところまで行く。それは遠目には桜っぽく見えたが、桜ではなかった。校門のところにトックリキワタという木であることの説明があった。元はブラジルやアルゼンチン産の木であるらしく、今は神原中学校のシンボルにしているらしい。

 

Cimg3584  与儀公園の近くの与儀市場通りを歩く。ここには沖縄の古い家屋が残っている。それらのほとんどは何らかの改修をしているが、屋根は琉球赤瓦を使っている。与儀市場通りはやや機能を失った商店街になってしまっているが、左右両側にいくつか通りがあるので入ってみると古い家屋を見つけることができる。この辺りは民家のなかに古いスナックが点在している。民家も古いのでレトロ度は高い。与儀市場通りの名前は介護施設の看板にだけ残っている。

 

 与儀公園から開南交差点までの開南本通りは昔、仏壇通りと呼ばれて いたところだ。今、仏壇を扱う店が何軒あるのかを数えてみる。Cimg3604 2013年12月11日時点で7軒残っている。暇な人間というのはこういうことをしてしまう。仏壇通りといえば浅草が有名だが、飯山(長野県)にもある。飯山よりは店が残っているようだ。この開南本通りは与儀公園の側から見ると普通の通りだが、開南交差点側から見るとうらぶれた感じがする。


 農連市場に入っていく。もうお約束のコースである。毎回来ているので新鮮さはまるでない。まるでないが、写真だけは撮る。過去に撮ったところと同じようなところを撮っているはずだ。2日後にやってくるMCimg3620 さんに、また農連市場ですかと言われそうだ。そうだから仕方がない。今回は行きたい場所を見つけられないのだ。最近の沖縄の若者は農連市場を知らないとどこかで読んだ。

 

 農連市場を出れば、大平商店街(大平通り)に入るしかない。そうするしかないのだ、このルートでは。この商店街で売られている弁当や惣菜などは安い。その割に中身は豊富である。豊食堂は健在だった。cafeうさみという店ができていた。コーヒーは150円だが、マグドナルドも100円なので安いとはいえない。

 

 短い大平商店街を抜けると、すぐに新天地市場本通りだ。ここも短い。そこから市場中央通りに入る。第一牧志公設市場の近くに琉球銀行Cimg3643 があり、そこからかりゆし通りが分かれる。ここのガーブ川中央商店街組合が商店街の2階で「なつかしのまちぐゎー展」をやっている。これだけは沖縄に来る前に、沖縄タイムズの記事として読んでいた。つまり来ようと思って来たところである。

 

 今年の2月から3月にかけては「あんやたん 懐かしのマチグヮー写真展」がひやみかちマチグヮー館展示場で行われていた。写真展の開かれていた日と私の沖縄滞在の日程が合わなかったので、見ることはできなかった。Mさんが展示されてあった写真を撮影して送ってくれていたので、この旅日記を書きながら確認していくと、一部は同じ写真が使われているようだ。

 

Cimg3664  1962年からガーブ川を掘り下げ、地下水路とした。その上に建物を建てガーブ川中央商店街としたのだ。まず驚いたのは2階の変貌である。1階は店が並んでいるので変えるのは難しいが、2階は何も使っていなかった。一部ではあるが、リニューアルしてきれいになっている。以前、トイレを使わせてもらったことがあり、2階の様子は知っている。商店街を2階から撮影するにはよかったが、汚い場所だった。トイレもきれいになっていた。

 

 ボンネットバス、三輪トラック、牛車がいっしょに写っている国際通りの写真があった。ガーブ川の改修工事の写真があった。車が右側通行だったときの写真と左側通行になったときの写真が並べられていた。右を走っていた車が左に変わる瞬間を見ようと交差点に集まった人たちを写した写真があった。

 

 昔のガーブ川周辺はスラムといってもいいような場所だった。そんな写真が展示されていた。ほとんどが白黒写真だ。沖縄タイムズが写真を提供しているが、ほしい人は1点3,000円で買えるらしい。営業を最終目的とした協力なのだ。

 

 戦後すぐの沖縄は貧しかった。日本全体が貧しかったが、特に沖縄は貧しかった。それがよく現れた写真展だった。

 

 昨日閉まっていたウララは開いていた。沖縄本を集めている古本屋だ。奥の本棚の場所は裸電球がある。当然、わざとそうしているのだろう。ここは店員の女性がいつもパソコンで何かをしている。

Cimg3668  市場中央通りに撮影クルーがいた。その先に〔志村けん〕が犬を連れて歩いていた。「天才!志村どうぶつ園」の撮影らしい。〔嵐〕を見ることはできなかったが、〔志村けん〕をいとも簡単に見ることはできた。何の感慨もわかなかった。そこから50メートルほど国際通りのほうに歩いたところで別のテレビクルーが何かの撮影をしていた。ザキヤマ(アンタッチャブル・山崎弘也)に似た男が商店を訪問して何かを話していたが、ザキヤマではなかった。

 

 国際通りに出てしまった。今日の徒歩旅は終わりだ。スターバックスでコーヒーを飲む。グレイス那覇にもどるときに通る県庁前通りにはホテルが2つある。そのうちのホテルロコアナハの前にはバスを待つ人たちが長い行列をなしていた。今日は平日だった。曜日の感覚がなくなっている。

 

 ホテルチュラ琉球の近くのゆくい処アンマーの味で夜ご飯。ビール、てびち、島豆腐チャンプル。20:00頃、グレイス那覇にもどる。

何をしていいかわからない那覇

8日目 2013年12月10日  那覇

  

 南大東島に吹いていた風は海の上にも吹いていた。

 

Cimg3503  西港を出るとき「だいとう」は少し揺れていたが、大揺れというほどではなかった。「だいとう」は途中まで順調に航行したように思う。しかし23:00過ぎぐらいから状況が変わった。海は荒れ、船は揺れた。トイレに行く際には船内のところどころにある手すりにつかまらないと真っ直ぐには歩けない。いきなりぐらっとくる。「だいとう」は2代目で2011年にデビューした新造船だ。フィンスタビライザーが付いているので横揺れはある程度制御されているはずだ。それが少しは効いているのでこの程度の揺れでおさまっているのかどうかはわからない。揺れは今朝の3:00くらいまでは続いたようだ。5:00頃に目が覚めたときに揺れはおさまっていた。7:20頃に館内放送があり、泊港入港だということが知らされた。外に出てみた。2階のデッキまで濡れていた。雨のなかを航行していたようだ。

 

 7:40、那覇泊港に到着。前にも書いたが、「だいとう」は格好いい。接岸している際には埠頭の上に出ている船部が少ない。重心が低いということなのだろう。後ろから見るフォルムは自衛艦を想起させる。

 

Cimg3495  泊港に停泊しているのは、フェリー粟国、フェリー琉球(渡名喜、久米島行き)、フェリーとかしき、フェリーざまみだ。「だいとう」が加わることによって、おそらく全航路の船が揃ったのではないか。ちょっと壮観である。とまりんを出航するフェリーの多くは10:00発だ。10:00以降のとまりんはほとんどの船が出払っている状態になり、夕方には多くの船が帰港してくる。

 

 とまりん2階のカフェでコーヒーを飲む。そのあと沖映通りのバーガーキングで朝ご飯。両方ともコンセントがあるので、パソコンで旅日記を書く。

 

 グレイス那覇のチェックインは14:00からだ。早く行ってもリュックぐらい置かせてくれると思うが、時間があるので安里川まで歩く。ゆいレールに沿って、ということは安里川に沿ってということだが、牧志駅まで歩いてみる。途中、国際通りに抜ける道もあったが、おもしろそうではない。

 

Cimg3507  国際通りの東の端は牧志駅をさらに東に行ったところだが、西のほうに歩いていく。途中からは、初日に歩いた道順だ。あいかわらず高校生が多い。どこかに寄ってもよいが、一気にみずほ銀行まで歩き、県庁前通りを南に向かう。この通りを歩くのは初めてだ。大きくカーブをした先にちょっと安っぽいビルが見えてきた。少し離れていても、グレイス那覇はたぶんあれだろうなとわかる感じだった。

 

 グレイス那覇は初めて泊まるホテルだ。予約をしたときはデイスカウント期間中らしく、1泊2,000円で予約できた。個室では那覇で最安値かもしれない。着いたのは13:00過ぎだったが、チェックインさせてくれた。別になっているトイレ、シャワー室はきれいだったが、部屋が小さい上、テーブルも小さくモノを置く場所の確保が難しい。整頓しながら部屋を使わないといけないが、文句は言えない。

 

Cimg3514_2  部屋でゆっくりしてから、外に出る。さて、何をしよう。やることを考えてきていないのだ。とりあえず国際通りでも歩くかというふうになるのだが、12月4日に歩き、今日もホテルに着くまでに歩いた。とりあえずむつみ橋交差点まで行き、市場本通りとむつみ橋通りを歩く。沖縄関係の古本を集めたウララは閉まっていた。一瞬、つぶれたのかと思ったが、7日~10日まで臨時定休日の張り紙が出ていた。

 

 桜坂劇場のほうに歩く。劇場内で12月中の上映スケジュールを見たが、おもしろそうな映画はやっていない。那覇で映画を観るというプランはなくなった。壺屋のほうに少し歩くが、引き返し、竜宮通りを国際通りのほうに抜ける。私のなかにある竜宮通りは山羊料理通りなのだ。やはりあるべきところにあるべきものがあった。

 

 スターバックスに入る。おそらく1時間以上ここにいることになるが、これで今日の日程は終わりだ。どうする? こんなことでいいのか。せっかく那覇まで来ているのだ。毎回、沖縄に来る前には、どこに行こうかと地図で探るし、インターネットで検索する。そうしないと毎回、同じ場所に行くことになる。実際そうなってきた。工夫を重ねてもなかなかよいアイデアは生まれない。

 

 3回前は掲示板で与那原の飲み屋街がどうやらレトロであるという情報を探り当てた。このときはかなりの時間をかけ、その情報にたどり着いた。前々回は普天間基地を徒歩で一周した。このときは沖縄への進入角度を変えた気がした。前回は与座や真栄里という糸満の田舎に分け入ることができた。集落がテーマだった。行く場所がなくなってからでも、3回連続で新しい沖縄を自分のなかに付け加えることができている。

 

 今回は南・北大東島行きがあったので、本島をノーマークにしてしまった。那覇周辺でおもしろそうな場所は大東島にいるときに見つければいいと思っていたのだが、後半の〔嵐〕騒ぎでそれどころではなくなった。沖縄県営鉄道跡を歩くというのが唯一考えたプランであるが、これについてはそれなりに周到な準備がいる。それにどうやらあまりおもしろいものではないと思い始めている。

 

 沖縄と鉄道の関係は調べてみる価値のあるテーマだ。沖縄県営鉄道は、嘉手納線(那覇の古波蔵駅から嘉手納駅)、与那原線(那覇駅から与那原駅)、糸満線(国場駅から糸満駅)、海陸連絡線(那覇駅から桟橋荷扱所)の4路線あった。路線を現在の地図に当てはめてみると、多くは道路になっており、駅や線路跡はほとんどなさそうだ。

 

Cimg1583  唯一おもしろそうなのは糸満線である。糸満の与座に行ったとき、さとうきび畑のなかにある白い道が鉄道跡だったことを地元の人に教えてもらった。そこは高嶺製糖工場跡のあった場所で、現在はその全部が集落になっている。今では工場の門柱とタンクだけが残っている。

 

 鉄道の廃線跡を行くのは初めてではない。一度、北海道の標津線に沿ってレンタカーで周ったことがあった。上武佐駅は高倉健の「遥かなる山の呼び声」の舞台だと現地で知った。奥行臼駅は駅舎も線路もそのまま、すばらしいかたちで保存されていた。それDscf0091 以外にもいくつかの駅が何らかのかたちで施設として残っていた。標津線以外のいくつかの線で保存されている駅を見たことはある。わずかの経験だが、そのおもしろさをわからないわけではない。

 

 沖縄県には、本島縦貫鉄道構想がある。那覇空港から名護までの69キロの路線だ。そのうち那覇空港からうるまにかけては、普天間周辺を除き地下を通す構想があるのだ。都営地下鉄大江戸線で採用されている小型リニア方式で、建設費は5,600億円。那覇空港からコザまではピーク時で1時間12本の列車本数。1日32,000人の輸送人員だと8億7,000万円の赤字、43,000人では9億8,000万円の黒字になるという県の試算がある。この計画には内閣府の調査もあり、仲井真知事は政府に支援を要請している。政府は沖縄の鉄道敷設に関する調査費を26年度予算に盛り込む。つまりこれは、普天間基地の辺野古への移設と引き換えで決定されるだろう。知事は退任と同時に辺野古移設を承認するというのは沖縄県民の共通した認識である。

 

 沖縄に鉄道を敷設しようという計画は古くからある。10年ほど前、コザに鉄道を敷く会(名称はよく覚えていない)の事務所が中央パークアヴェニューにあった。コザの有志が勝手にやっているような感じだったが、いつの間にか無くなってしまった。

 

 スターバックスの近くの店で沖縄そばを食べる。歩いて帰ってもいいが、少し遠回りして、牧志駅からゆいレールに乗ってみる。県庁前駅で降り、夜食用にコンビニでおにぎりを買い、グレイス那覇にもどる。

2013年12月10日 (火)

〔嵐〕の学校訪問! 生徒だけが予見していた!

7日目 2013年12月9日  南大東島

  

 6:10過ぎ、南大東村港湾事務所から電話が入る「今日、北大東島に行かれますよね」。今日は那覇に向かうと答える。他の誰かとまちがえたか、私の予約をまちがえたかのどちらかであるが、予約内容を不安にさせる電話だ。南大東村港湾事務所が要領を得ない電話をしてきたのは2度目である。

 

 7:00過ぎに朝ご飯。Kさんがこれから北大東島に行く。午後の船で南大東島にもどる予定だ。私はKさんが降りてきた「だいとう」に乗ることになる。

 

 昨日は一昨日と異なる1日だった。かなり劇的に異なる1日だといっていいだろう。それは島民にとってである。

 

Cimg3474  今日は昨日とちがう。島民の目にはそう映らないが、旅人の目にはそう映る。朝はそれほど寒くはない。昨日までの朝は涼しかった。島に風が吹いている。いや風が島を通り抜けている。ピューという音だ。フィリピンで聞いた風の音は家を叩く音だった。それは風の音ではなく、物理的な物音だった。風の音は空気音だ。おそらく流れる空気と止まっている空気のすれ違う音だ。それがピューという音だ。民宿金城の格子戸からその音が入ってくる。

 

 午前中、民宿金城のロビーで旅日記を書いている。だらだら書いているので集中しない。ときどきはインターネットにアクセスしながら書いている。遊びながら書いている。Nさんもやることがないようでロビーで本を読んでいる。ときどき取り留めのない話をするが、話題が切れかかるとそれぞれやっていることにもどる。悪い時間ではない。

 

 11:30頃、昼ご飯を食べにいく。2日前に行った居酒屋ベレンで昼ご飯を食べようと思ったが、閉まっていた。弁当を買おうと隣の仲程商店に入ったが、それらしきものは売り切れだった。南大東島を紹介するパンフレットに、この店のおばあちゃんがかわいいと書いてあった。「ごめんね、なくって」と言われた。本当にかわいいおばあちゃんだった。結局、大盛商店でオムレツ弁当を買ってきて、民宿金城のロビーで食べる。

 

Cimg3093  午後も引き続き、パソコンで旅日記を書く。外の風の音が気になる。Nさん「船は揺れそうだね」。

 

 13:00過ぎ、南大東島港湾事務所から電話が入る。那覇行き「だいとう」は西港に入ってくるので、16:20に集合という案内だった。おかみさんに伝え、16:00に出発することになった。

 

 今朝、北大東島に行ったKさんは、私の送迎の車で民宿金城にもどることになる。Nさんはやることがないらしく、車に同乗することになった。

 

Cimg3150  15:20頃、船で食べる弁当を買いに出かける。大盛商店の前に小学生が数人いた。彼らはその場を離れそうだったので、急いで近づいていった。すかさず〔嵐〕について尋ねてみる。そこにいたのは、小学校5年生を中心とした集団で6年生もいた。そのうちの1人は昨日の朝、気象台に向かうとき、私が道を尋ねた少年だった。彼は私を覚えていた。私が話をしたのは主に男の子4人だ。その周辺にも3、4人ぐらいいた。女の子も遠目にはいたが、会話をしていない。

 

 彼らは空港で〔嵐〕を見たそうだ。それだけではない、学校でも〔嵐〕と話していた。ある生徒は「何になりたいのかを聞かれた」と言っていた。その生徒はサッカー選手と答えたらしい。

 

 〔嵐〕の学校訪問を疑問に思っていた。昨日は日曜日である。生徒たちは急きょ呼ばれたのだろうか。生徒のいない学校に〔嵐〕が行って、何かをしたという可能性もなくはない。

 

 生徒たちは〔嵐〕と話していたことがわかった。〔嵐〕は学校に3時間ほど滞在していた。島内滞在時間が5時間であることを考えると、主目的が学校訪問であることは明らかだ。生徒たちが日曜日に学校に行っているということは、〔嵐〕は生徒との交流のために行ったのだ。NHKは紅白歌合戦の目玉の1つとして、南大東島の子供たちとの交流の様子を流すにちがいない。

 

 日曜日に生徒たちが集められるということは、〔嵐〕来校があらかじめ生徒たちに伝えられていなければならない。生徒が〔嵐〕来校を知ったのは、前日らしい。しかし生徒たちは〔嵐〕が来ることを前から予想していたという。理由は、〔嵐〕の曲を練習してきたからだ。彼らは、昨日〔嵐〕の前で〔嵐〕の曲を歌ったそうだ。歌の練習がどのようなものだったのかは知らない。

 

 学校関係者は情報管理に苦心したのだろう。訪問は用意周到であった。ただ電撃性を装っても、すべてを隠すことはできなかった。

 

 学校側は、というよりNHKは、前日に子供たちに〔嵐〕来校を伝えるという苦肉の策を取っている。島内の誰もが〔嵐〕の来島を知っている状況を避けたかったのだ。南大東空港に、歓迎〔嵐〕の人だかりができるのは彼らにとっては困ることだった。島内に流れれば、情報は島外(ここの場合、那覇)に出ていくだろう。那覇は東京と直結しているし、ツイッターやフェイスブック上で過剰に流れた場合、事後のカバーはほとんどできない。現場における多少の目撃情報は仕方がないが、大幅な情報流出は、紅白歌合戦のなかで流す映像の鮮度を落とすものになる。

 

 昨日私は少しインターネットを検索した。昨日の14:00前ぐらいにツイッターに1件、夜にブログに1件の情報があった。その件数の少なさは南大東島の人口と関わりがあり、島の若者数とも関連がある。南大東島は情報封鎖をするには最も適した島だった。そのことをNHKが熟知した上でこの島を選んだのかどうかはわからない。

 

 生徒の親は前日に、子供から訊いたはずである。

 

 ここから先は推測である。昨日島内を駆け巡った情報は空港から発信されたものではないだろう。同じ飛行機に乗った人たちは南大東空港に着いたとき、すぐに家族に電話をしたのだろう。しかしおそらく空港からも〔嵐〕は隠密に移動したと思える。彼らが姿を現したのは、やはり学校だろう。学校は島の中心の一角にある。そして島内に爆発的に広がった。草刈は中止されたのではない。放棄されたのだ。

 

 居酒屋ちょうちんで見かけたNHKの先遣隊は、空港、学校、旅行案内所の職員と綿密な打ち合わせをしてこの日を迎えたはずだ。海軍棒、日の丸山展望台でも下見はしただろう。

 

 南大東小中学校の教育目標は「よく考え、進んで学習する子」、「明るく思いやりのある子」、「健康でねばり強い子」、「郷土を愛し、郷土を拓く子」を育てるということだ。どこの小学校にでもある普通の言葉が並んでいる。ただ4番目の目標のなかの「拓く」には注目していいかもしれない。「拓く」は「開拓」の「拓」である。「拓く」は荒野をイメージさせる。それは南大東島のことだ。この島に生まれた子供たちは、自分たちの生まれた土地が半ば荒野で、それを切り開いて生きていくということを教えられる。

 

 学校ブログ(全体)には運動会や八丈島との交流が載っているが、〔嵐〕についての記載はまだない。紅白歌合戦終了後の2014年初頭に掲載されるのかもしれない。

 

 「〔嵐〕、どうだった?」

 「かっこいい」

 「誰が1番好きなの?」

 「翔くん」 

 私の取材では、櫻井翔くんが1番人気であった。ニノが1票取った。 

 

 島は本当に狭い世界だ。民宿金城のおかみさんの知り合いが、土産物屋の太陽ぬ家にいるらしい。その人が〔嵐〕の乗った車のドライバーだったらしい。

 

Cimg3455  2013年が暮れる間際に、NHKは〔嵐〕と生徒たちとの交流の様子を流しながら、南大東島のうつくしい風景を流すだろう。さとうきび畑やシュガートレインの線路跡が出てくるかもしれない。しかしTPPの行方次第で、日ノ丸山展望台から眺めるさとうきび畑は壊滅する可能性がある。少し前にこの島にやってきた小泉進次郎は回答不能に近い問題を持ち帰った。彼が来島した勇気にはひとまず拍手をしていいが、政治家は決断をしなければならない。本当の敬意はそのあとのことだ。

 

 膨大な公共事業費を継続していいのかという単純な問題は最初からある。国民を本土から遠く離れた島に住まわせることにより、海洋国家日本の領土の守りとするといった戦略的な視野に立たなければ、問題は解決しないだろう。住まわせるための仕事の提供と住民の生活の保障などのトータルな設計をした上でないと、公共事業に関しての批判は消えないだろう。

 

 そうだ、私はまだ〔嵐〕の話をしていたのだった。松潤や翔くんがどういう服装であったのかはここでは書かないが、2013年の紅白歌合戦の注目ポイントを書いておこう。みなさん、ビデオが流れたときの、相葉君の服の色には注目してくれ!

 

 私の言っているのは空港での服の色のことで、もしかたら撮影中は着替えていたかもしれない。そんなのは私の知ったことではない。

 

 〔嵐〕は昨日の22:30頃に羽田空港に着いたらしい。これで〔嵐〕の話は終わりだ。私は懸命の取材を試みた。友人に、追っかけなのかと問われながら、である。しかし彼らを見なかった。残念至極である。

 

 16:00、おかみさんに西港まで送ってもらう。Nさんもいっしょである。私はまた鳥かごに乗せられた。降りた「だいとう」に北大東島から乗ってきたKさんがいた。Kさんが鳥かごに乗り、南大東島に上陸する。

 

 おかみさんとNさんとKさんは民宿金城にもどり、私はこれから那覇に向かう。Kさんは明日の飛行機で那覇にもどり、本部のほうに行くらしい。Nさんは明後日、飛行機で那覇経由、山口にもどる。12日にはリピーター2人組みが民宿金城にやってくる。民宿金城には他の旅行者もいたし、工事関係者も泊まっていたが、私は顔を合わせなかった。

 

 民宿金城は昨日も今日も明日も旅人が通り過ぎる。

2013年12月 9日 (月)

〔嵐〕が島にやってきた! 気象台は観測できず! おかみさん情報でどうする?

6日目 2013年12月8日  南大東島

  

 7:00に朝ご飯。Kさんもいっしょ。

 

 8:00に民宿金城を出て、15分ほどで気象台到着。Nさん、Kさんも来ている。30回ぐらいここに来ている人と4人で発射を待つ。観Cimg3368 測バルーンは8:30と20:30に発射される。実際の発射は30秒くらい遅れるそうだ。発射台の外側のフタは開かれているが、内側のフタは閉じられている。その内側のフタが開くと、すぐにバルーンが発射されるので、見逃すとカメラの枠からはみ出てしまう。バッターの打ったボールを追うカメラマンほどではないが、それなりにちゃんと準備しておかないといけないわけだ。

 

 8:30を少し過ぎた頃、内側のフタが開いたと思ったら、あっという間にバルーンが出てきて、あれよあれよという間に上がっていった。カメラのシャッターを何度も切った。きっちり10分間でバルーンは見Cimg3378 えなくなった。今日は快晴で風もなかった。30回ほど来ている人は、今までのなかで最高に近かったと言っていた。今日はバルーン見学日和だったわけだ。

 

 民宿金城にもどる。ショルダーバッグの中身をリュックに入れる。リュックのほうが動きやすい。9:00前に出発する。今日は自転車を借りていない。徒歩で島を周ると決めている。昨日自転車で周ったとき、比較的近くの場所を残しておいた。

 

 月見橋を渡る。周囲には水吸池、月見池、瓢箪池がある。昨日、自転車で通ったところだ。まっすぐ進み、左折する。9:50頃にグレイスラム(ラム酒工場)前に着いた。先にビニールハウスの向こうの旧石垣空港の滑走路を見る。ただのコンクリートの道である。その先にゲートボールの屋内コートらしきものがある。さらに奥にはビジターセンター(まるごと館)があったので、見学する。

 

Cimg3409  ビジターセンターで南大東島の多くのことがわかる。星野洞やバリバリ岩、コウモリ、天然記念物のエビ、南大東島の文化などの説明をしてもらった。

 

 地下の鍾乳洞で5年ほど前に採取したエビを飼っている水槽があった。それはオーストラリアにいるエビと同じ種類だったらしい。それにより地殻が動いたという説に信ぴょう性がおびてきたらしい。もっと驚くのは、エビは適当に水を入れ替えるだけで、エサもやっていないのに5年間生き続けているということだ。大きさは1センチぐらいで採取したときと大きさは変わらないらしい。

 

Cimg3414  昨日行った大東神社では相撲大会や神輿といった行事があるらしい。しかし島民は同時にエイサーをやっている。相撲や神輿はもちろん本土からやってきた。それは八丈島から伝えられたということだ。エイサーはもちろん沖縄からである。沖縄はチャンプル文化であるが、この島は本土と沖縄をさらにミックスしている。住民は2つの文化イベントを普通に使い分けているということだ。

 

 大東島には虹石(レインボーストーン)がある。大東諸島だけで採れる石灰岩の割れ目に赤土や珊瑚や砂が入り込んだもので、磨くと縞模様がとてもきれいだ。置物では1,000,000円のものがあるといCimg3412_2 う。これについては、民宿金城のおかみさんはそんなに高くはないといった感じだった。民宿金城の入口にも大きい虹石があった。この石は島外には持ち出し禁止である。持っていった人に不幸が続き島に返しにきたという話があるそうだが、外への持ち出しをさせないための話だろうというのはおかみさんの説である。

 ところで丁寧に説明してくれた人は館長ではない。館長はダイトウオオコウモリである。羽を開らくと1メートルの大きさになる。

 

Cimg3400  10:20頃、旧空港ビルをそのまま使ったグレイスラム(ラム酒工場)に行く。工場の外でもラム酒の匂いがプンプンだ。ここでNさん、Kさんと待ち合わせをしていたので、いっしょに説明を受ける。沖縄電力が新規事業として始めたそうで、今は年間50,000本を出荷するそうだ。

 

 ふたたび徒歩旅を再開だ。グレイスラムから南に10分ほど歩き、空港に向かう通りに入る。10分ほど歩いて、右に折れる。ここからはどこまでも南に歩けばいいはずだが、それは方角の問題で、道はところどころで小さくカーブする。左右に抜ける道があるが、まどわされてはいけない。さとうきび畑を30分ほど歩く。坂を登ると、すり鉢状の地形の上のほうを通っている外周道路に出る。この辺りの外周道路は狭い。

 

Cimg3440  西に15分ほど歩いて日の丸山展望台に着く。南大東島全体が見渡せる。北海道のような風景だ。遠くにはノエビア南大東海洋研究所の建物も見えた。風が吹いていて気持ちがいい。30分ほどそこにいる。

 

 外周道路を西に進むと風力発電の風車が2基見えてきた。進む方向はほとんどわかっていたが、たまたま出くわした車のドライバーに亀池港への道順を尋ねたら、乗せてくれた。役場の雇用促進課の車だった。

 

 亀池港は昔の漁港だ。昔の漁師はクレーンを使って自分の船を海に降ろしたらしい。それに飛び乗って漁に出る。漁からもどると陸に上がっCimg3461 て自分でクレーンを使い、船を陸揚げする。そのあとも自分で魚をさばいて市場に出していたらしい。この島の漁師はそうしてきたのだ。旧漁港の隣には新港の設備が開港を待っていた。

 

 へとへとになりながら、亀池漁港から1.2キロ歩いて町中にもどる。Aマートでうっちん茶とゴーヤー茶を売っていた。ゴーヤー茶は那覇でも置いているところは多いわけではない。うっちん茶を買う。富士食堂に入るとKさんがいた。初日に食べた大東そばバイキングを注文する。隣の大盛商店で伊江島ピーナッツを買ってくる。

 

 14:00頃、民宿金城荘に帰ったとき、おかみさんが少し興奮気味に「〔嵐〕、来てるよ」。最初は何のことかわからなかった。

「あの、ジャニーズの〔嵐〕ですよ。今、海軍棒に行っている。島の子が追っかけている」

「泊まるんですかね?」

「泊まるかどうかはわからない」

「泊まるとしたら?」

「ホテルよしざと」

「待つとしたら空港ですね」

 

 さて、どうする? 今日に限って足がない。昨日行った南大東空港までの距離はわかっている。これから自転車を借りるか、借りるとしたらレンタカーがいいか。しかし借りることができるのかどうかがわからない。昨日の自転車は1日前に予約をして借りた。ホテルよしざとの自転車は合計3台である。〔嵐〕がホテルに泊まるのなら問題はない。ホテルよしざとまで徒歩1分だ。日帰りの可能性が高いと判断できるので、飛行機の時間を確認すると、那覇行きは16:10発だ。

 

 今日あまりに疲れすぎていた。朝、歩き出したとき、太腿が痛い。昨日の疲れが残っていることを実感した。そして部屋でごろんと横になり、うとうとして1時間ほど寝てしまった。熟睡である。

 

 起きたのは、15:30頃だ。島を揺るがしたほとんどの出来事は終わろうとしていた。それは島を高揚させ、あっという間に終焉を迎えようとしていた。寝起きの私にもなぜか容易に推測がつくことだった。12月8日は何事もなく終わるのだろう。平凡に始まった旅の1日が平凡に暮れていく。

 

 〔嵐〕情報をまとめておく。

 

 〔嵐〕は午前中に飛行機で南大東島にやってきた。5人いっしょである。

 

 〔嵐〕はNHKの紅白歌合戦のときに流す番組録画のために来た。

 

 〔嵐〕が来る3、4日前にNHKのスタッフが南大東島に来た。彼らはホテルよしざとに泊まっている。近くの大衆居酒屋ちょうちんで何度か食事をしている。彼らは予約をしていて、インガンダルマなどを注文している。この魚は少し食べ過ぎると下痢を起こすので、私は最初から食べる気がしなかった(大衆食堂ちょうちん情報)。

 

 ホテルよしざとの前でカメラクルーがいた。推測であるが、NHKではないらしい(Nさん情報)

 

 〔嵐〕は今日の午前中に小中学校に行き、生徒と交流した(大盛商店/おかみさん情報)

 

 この日はある区の草刈の日だった。実際、今朝から私は草刈の人たちを何人も見かけた。ブログの管理人が炊き出しのカレーが用意されている公民館にもどったら、嵐が話題になっていた。女性たちは草刈を投げ出して、嵐を追っかけた(島内の某ブログ情報)

 

 〔嵐〕は海軍棒に行った(おかみさん情報)。今日、Nさんはそこにいたが、誰も見なかった。

 

 〔嵐〕は日の丸山展望台に行った(大盛商店情報)。私は11:20頃から30分間いたが、誰も来なかった。

 

 〔嵐〕は16:10の那覇行きに乗った。飛行機に乗客全員を乗せたあと、〔嵐〕は1人1人空港ビルから出てきて、飛行機に乗り込んだ(Kさん情報)。Kさんは空港で嵐を遠くから見ていた。彼が見たのは滑走路側だ。そこは私も昨日自転車で走ったところだ。だから至近距離ではない。滑走路の反対側からだ。空港ビル周辺は追っかけの島民でいっぱいだったそうである。

 

 

 17:30頃、シャワーを浴び、洗濯をし、旅日記を書く。〔嵐〕を見なかった喪失感は軽くない。

 

Cimg3473  21:00頃に居酒屋ちょうちんでビールを飲み、おでんや焼き鳥を食べた。店を出るとき、おかみさんに「今日、〔嵐〕が来ましたよね」と尋ねてみた。おかみさんもご主人も子供も〔嵐〕が来たことを知らなかった。「知っていたら、行っていた」悔しがっていた。私がおかみさんに紅白歌合戦の収録のために来たと話したときに、NHKのスタッフが店に来ていたことをおかみさんから教えてもらったのだ。

 

 そのあと大盛商店に入ったのは〔嵐〕情報を得るためだ。ここだけは23:00まで開いていて、食堂や居酒屋の人たちも客の注文を満たすために食材などを買いに来る。通りに人はもうない。今夜、情報を得られるのはもうここしかない。店に入りさんぴん茶を買い、思い切って言ってみる。「〔嵐〕が来ましたよね。海軍棒に行ったらしいですね」。おかみさんはあまり反応しなかったが、もう1人いた女の子が「学校と日の丸山展望台にも行きました」と答えてくれた。これで一応の情報収集は完了した。

 

 〔嵐〕の滞在時間は約5時間ぐらいだ。滞在時間から推測すると、海軍棒、小中学校、日の丸展望台で全部だろう。私が日の丸展望台にいる時間をずらすことができていれば会えたのだ。

 

 この日、島は明らかに興奮していた。私も興奮した。

«のんびりとした南大東島。自転車を乗ったり押したり。

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